アーキプラス

96.オーディオ遍歴

自宅近所の量り売りのお肉屋さん
 今までいろいろな音楽に接して、楽しんできた。母親が音楽好きだったので、子供のころから親しんでいた。とはいえ子供のころは、真空管ラジオから流れる歌と母親の口ずさむ歌ぐらいであった。幼稚園に通い始める頃、同じ社宅に住む、電気工作が好きなおじさんが、我が家に電蓄をつくってくれた。ラジオも聞こえる蓄音機であった。78回転の分厚いSPレコードによって、クラシックや童謡、洋楽が我が家にもたらされた。テレビを購入する前まで我が家の中心に鎮座していた。
 小学3年生になると17cm片面モノラル録音のソノシートが1冊につき4,5枚ついている「世界音楽全集」という本を我が家で購入した。筑摩書房より毎月1冊刊行された。1960年11月から1963年12月にかけて全40巻発刊された。全部で30ページ程の曲の紹介・解説,エッセイ,演奏者の略歴と紹介があり、中身は小学生には難しくてわからなかったが、毎月届いたソノシートを聴くのが楽しみであった。小学校で習う音楽よりもクラッシック通好みの選択なので難しい曲が多かったが、いろいろなジャンルをカバーしていたのでこれを聴けばクラッシック音楽がわかると思い、夢中になって聴いた。そのおかげで、中学2年生の時の夏休みの音楽の宿題では、多種多様な音楽の感想文を書いているうちに数が増え、30曲ぐらい書いて提出することができた。結果は100点満点であった。
 ビートルズに夢中になった1964年からは、当時はやっていた家具調のコンソール型ステレオが欲しくてしょうがなくなった。兄が街で拾ったお金が1年経ち、償還された資金を元にコロンビアのステレオを購入してもらった。丁度FM放送が始まったころでもあり、自分の部屋に置き、帰宅後毎日聴きまくった。おかげでポピュラー音楽に詳しくなり、学年でも有数のポピュラー音楽通となった。
 その後、テープレコーダーを買ってもらい、ラジオ放送を録音したりした。それはギターのアンプが代わりにもなった。下手くそなギターを小音量で聴くことができた。高校に入ってからはサッカー中心の生活になったせいか、ポピュラー音楽の興味は薄らいできた。そのかわりにロック音楽の興隆に目を見張り、またモダンジャズなどを聞くようになった。
 大学2年の時に突発性難聴になり、右耳が多くの周波数域で聞こえなくなった。ギターの音をテープレコーダーから右耳にイヤホンで聞こうとした。出力オーバー気味で大音量で聞こえるかのようにしたせいだと思った。難病で治らないようだ。すると音そのものがまた恋しくなった。手軽に持ち運べながら音質もよいラジカセが出始めた頃であった。出力3.8Wのアイワのラジカセは小さな空間では十分な音量と音質をもたらせてくれた。
 大学院に進んだ頃、コンポーネントタイプのステレオがブームになっていた。学費は当時の国立大学は月3000円であったが、(その4年前はなんと月1000円であった)家庭教師のアルバイトは続けたが、より自由に活動できるように日本育英会から奨学金を受けた。確か26000円だったと思う。次の年には28000円になっていた。今なら10万円は優に超す金額である。申請後7月に4か月分が下りてきた。10万円超の資金を持ち(今なら50万円ぐらいか?)不徳ながら、コンポーネントタイプのステレオを買った。大出力のパイオニアのパワーアンプとチューナー、オンキョーの縦型スピーカー、シュアのカートリッジが付いているビクターのレコードプレーヤーであった。これもリビングルームの中心に置き、モダンジャズやブラック・ミュージックを聴くのが、帰宅後や週末の楽しみとなった。
 その後、ウォークマンが出たりして、音楽の聴き方も変化してきた。しかし、イヤホンの音質はいまいちであった。最近になってスマートフォンの音楽配信とイヤホンの音質が著しく良くなったせいもあり、またブルートゥースを利用したりして、いろいろな場所で音楽を楽しめるようになった。逆にオーディオ装置そのものを利用して音楽を聴く機会が少なくなった。しかし、これからは妻の医院の閉院後、待合室と診療室をつなげた天井高5㎡の50畳の大空間に4m×4mのスクリーンに映像を映し出しながら、良質なオーディオ装置を導入し、音楽を聴くのを夢見ている。
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