2014.01.31
25.初めての海外 ビルマ旅行1981
コラムcolumn
① パガン空港での旅行者達 ② パガンの遺跡群
③ 人力車マンダレーにて ④ パガンに行く途中に立寄った村
当時29歳の私より10歳年上であった。
③ 人力車マンダレーにて ④ パガンに行く途中に立寄った村
当時29歳の私より10歳年上であった。
この正月にバンコックに行った。今回で4回目である。1981年に生まれて初めての海外旅行で1泊、1987年に3泊、2004年に2泊したが、いずれも短滞在であった。最初の1泊は、生まれて初めての海外旅行で最初の目的地ビルマ(ミャンマー)に行くためであった。
ビザは東京のビルマ(ミャンマー)大使館で取っていたが、エアー・チケットはバンコックで買ってくださいとの旅行代理店の指示で、真夜中のバンコック・ドンムアン空港に降りたった。翌日、チケットを空港で買い、ラングーン(ヤンゴン)に向かう。着いた時は暗くなっていた。ドンムアン空港は現在のヘルムート・ヤーン設計の超近代的な国際空港から比べて小さいものの当時の成田と比べても遜色のないように思えたが、ビルマのこの国際空港は、日本の離島空港の風体であった。
入国手続きで書類が足らないようなことを言っている。シークレットというように聞こえた。が、「タバコ(シガレット)をくれ」ということのようである。よくわからないでもたもたしていると痺れを切らして、通してくれた。外はスコールであった。旧型のタクシーで宿(YMCA)を告げると真っ暗闇の都市を通り抜けた。中心部はイギリスが長い間統治していた大都市だけあって、建物や緑が豊かな美しい街であった。ビルマ大使館からもらった宿泊所リスト(外国人はこれ以外泊まることができなかった)のうち一番安かったYMCAに向かう。何とか空き部屋があったが、窓が壊れて、ベッドが湿っていた。翌日2番目に安い宿に変えた。こちらには、窓がなかった。高い天井に大きなプロペラの扇風機が付いていた。
なぜ最初の旅をビルマにしたかというと、ヨーロッパの建築旅行に向かう前、アジア文化の以前の姿をとどめたところから行くと文化の違いがはっきりわかるのではないかと思ったからである。当時のビルマ(現ミャンマー)は鎖国的な社会主義国といわれていた。時間が止まったアジア的な社会主義国にそれらが凍結保存されていることを期待した。当時「地球の歩き方」はヨーロッパ編、アメリカ編ぐらいしかなく、資料はビルマ大使館からもらった見開きのパンフレットと宿泊所リストだけであった。参考にした本は1975年発刊の長澤和俊著『パゴダの国へ ビルマ紀行』のみであった。鹿児島大学が世界最初の学術調査を行った時の調査日誌の紀行文である。しかし、宿泊所が限られているから、結局行けるのは、推奨の観光コースであった。
敬虔な仏教徒が多く、街行く人はすべてロンジー(腰布)をまとっていた。パゴダ(仏塔)を建てる事が国の目標であったりしたところである。至るところにパゴダがあった。その後1日がかりの汽車で古都マンダレーに行った。ここでは人力車のサイカーをチャーターして、街を徘徊した。いろいろな遺構があったが、基本的には日本軍が敗走した時に焼き尽くしてしまったとのこと。基本的に配給制なので、ビールなどの贅沢品は街にはない。闇市に連れて行ってもらい。車夫のオジサンと一緒に冷えたマンダレー・ビールを飲んだ。この高温高湿の環境でこそビールはおいしいと思った。今まで飲んだビールの中で一番おいしかった。そこから船で1日以上イラワジ川を下って、世界三大仏教遺跡パガンに向かった。途中で寄った街は牛車が行き交い、まるで中世の村のような光景であった。パガンで無数にあるパゴダを見て、空路ラングーンに戻るといったところが1週間期限のビザで回れる限界であった。
まわりは2~3人の少人数又は単独の旅行者でアメリカ人、ドイツ人、フランス人などであった。東洋人の旅行者とは一度も出会わなかったし、見かけなかった。途中でアメリカ人の教師と宿をシェアしたりもした。
ミャンマーは、30数年前その鎖国政策により最貧国のひとつであったが、現在ではASEANに加わり、今後の経済的成長のポテンシャルから脚光を浴びようとしている。ヤンゴンへの直行便もあるようなので、開発が進む前に、またミャンマーに行ってみたくなった。
ビザは東京のビルマ(ミャンマー)大使館で取っていたが、エアー・チケットはバンコックで買ってくださいとの旅行代理店の指示で、真夜中のバンコック・ドンムアン空港に降りたった。翌日、チケットを空港で買い、ラングーン(ヤンゴン)に向かう。着いた時は暗くなっていた。ドンムアン空港は現在のヘルムート・ヤーン設計の超近代的な国際空港から比べて小さいものの当時の成田と比べても遜色のないように思えたが、ビルマのこの国際空港は、日本の離島空港の風体であった。
入国手続きで書類が足らないようなことを言っている。シークレットというように聞こえた。が、「タバコ(シガレット)をくれ」ということのようである。よくわからないでもたもたしていると痺れを切らして、通してくれた。外はスコールであった。旧型のタクシーで宿(YMCA)を告げると真っ暗闇の都市を通り抜けた。中心部はイギリスが長い間統治していた大都市だけあって、建物や緑が豊かな美しい街であった。ビルマ大使館からもらった宿泊所リスト(外国人はこれ以外泊まることができなかった)のうち一番安かったYMCAに向かう。何とか空き部屋があったが、窓が壊れて、ベッドが湿っていた。翌日2番目に安い宿に変えた。こちらには、窓がなかった。高い天井に大きなプロペラの扇風機が付いていた。
なぜ最初の旅をビルマにしたかというと、ヨーロッパの建築旅行に向かう前、アジア文化の以前の姿をとどめたところから行くと文化の違いがはっきりわかるのではないかと思ったからである。当時のビルマ(現ミャンマー)は鎖国的な社会主義国といわれていた。時間が止まったアジア的な社会主義国にそれらが凍結保存されていることを期待した。当時「地球の歩き方」はヨーロッパ編、アメリカ編ぐらいしかなく、資料はビルマ大使館からもらった見開きのパンフレットと宿泊所リストだけであった。参考にした本は1975年発刊の長澤和俊著『パゴダの国へ ビルマ紀行』のみであった。鹿児島大学が世界最初の学術調査を行った時の調査日誌の紀行文である。しかし、宿泊所が限られているから、結局行けるのは、推奨の観光コースであった。
敬虔な仏教徒が多く、街行く人はすべてロンジー(腰布)をまとっていた。パゴダ(仏塔)を建てる事が国の目標であったりしたところである。至るところにパゴダがあった。その後1日がかりの汽車で古都マンダレーに行った。ここでは人力車のサイカーをチャーターして、街を徘徊した。いろいろな遺構があったが、基本的には日本軍が敗走した時に焼き尽くしてしまったとのこと。基本的に配給制なので、ビールなどの贅沢品は街にはない。闇市に連れて行ってもらい。車夫のオジサンと一緒に冷えたマンダレー・ビールを飲んだ。この高温高湿の環境でこそビールはおいしいと思った。今まで飲んだビールの中で一番おいしかった。そこから船で1日以上イラワジ川を下って、世界三大仏教遺跡パガンに向かった。途中で寄った街は牛車が行き交い、まるで中世の村のような光景であった。パガンで無数にあるパゴダを見て、空路ラングーンに戻るといったところが1週間期限のビザで回れる限界であった。
まわりは2~3人の少人数又は単独の旅行者でアメリカ人、ドイツ人、フランス人などであった。東洋人の旅行者とは一度も出会わなかったし、見かけなかった。途中でアメリカ人の教師と宿をシェアしたりもした。
ミャンマーは、30数年前その鎖国政策により最貧国のひとつであったが、現在ではASEANに加わり、今後の経済的成長のポテンシャルから脚光を浴びようとしている。ヤンゴンへの直行便もあるようなので、開発が進む前に、またミャンマーに行ってみたくなった。
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