アーキプラス

2015.05.31

41.かみいちはわいやんず

コラムcolumn
写真提供 渡辺靖
Photo by Yasushi Watanabe
 「谷内田さん、ハワイアンバンドをやろう!」17年前75歳になるクライアントから突然言われた。以前彼の部下だった人がスティールギターを上手く弾くことができるという。判子屋のおじさんもエレクトリックベースを弾ける。植木屋の娘さんがエレクトーンに加わる。そのクライアントは、大正琴はうまいらしいのだが、ハワイアンに合わない。なぜかハーモニカになった。事務所の中からドラムとギターができるスタッフに参加してもらった。そして私がウクレレを弾くことになった。ウクレレは中学生の時に少し触った程度である。
 私が子供のころは、音楽は女子のたしなみであり、よっぽど音楽に造詣の深い家でなければ、男子で音楽を習うことはなかった。母がコーラスをやっていたため、音楽は大好きであった。音楽を習うことは憧れであった。しかし、中一の時、兄が高校に入学した記念で買ったヤマハのギターを使い、独学でギターを憶えた。各種のコードは比較的簡単にマスターできた。手先は器用でなかったが、その当時だれもが弾こうとした「禁じられた遊び」だけは譜面を読み何とか弾けるようになった。ギター・インストルメンタルでは当時ポピュラーだったベンチャーズよりも洗練されたシャドウズを好んだ。レコードを聴きながら一生懸命コピーをしたが、なかなかうまくいかなかった。時折、上手い奴のうちに集まり、エレキギターを借りて、合奏をした。もちろん伴奏のリズムギターである。その程度であった。
 しかし一時はやった「イカ天」の影響からか、素人のバンドブームが年配者にも浸透していたのである。中野の小学校の体育館で複数のバンドが集まり、コンサートをすることになった。そしてフラダンスのおばちゃんたちも加わることになった。上高田1丁目の人たちのハワイアンで「上一ハワイヤンズ」と命名された。コメディ映画のような展開になった。
 そのクライアンとは賃貸集合住宅のオーナーでその中に防音装置付きの集会室をつくった。そこが練習会場となった。アンプとドラムセットを持ち込んだ。週に1回の猛特訓が始まった。ハワイアンといっても昔日本で流行ったのはムード歌謡が主流であった。なかなかノリが合わない。ベースの判子屋のおじさんから、ルンバのリズムの切れが悪いと叱られた。しかし、2か月ぐらいの付け焼刃でも、時がたつとだんだんそれなりにまとまってくる。次第に暗譜し、楽譜を見ないでも弾けるようになる。ウクレレはシンプルな楽器だから、だんだん余裕が出てくる。ソロでもやらない限り、後は楽しく弾くだけである。
 当日全員アロハシャツを着てステージに立った。みんなまじめに真剣に演奏する。多少の間違いはご愛敬だ。後で聞いたら、ウクレレ弾いている人、何か楽しそうにやっているねという評判であったそうである。
 それ以来ときどき、パーティやスタッフの結婚式の余興などで暫し、弾くことになった。ザ・ビートルズ・アンソロジーの中でポールとジョージが昔を回想して、ウクレレ2台で弾きあうシーンがある。ハイスクール時代からよく使っていたのであろう。絶妙なコンビネーションであった。リバプールの若者はアメリカの音楽に刺激され、そのアンサンブルの源をウクレレで築いたのかもしれない。
 旅行に持っていったこともある。同室の友人には迷惑であったであろう。妻からは反対されている。ウクレレとともに私が歌い止まらなくなるからである。歌ももう少し練習して、周りが楽しくなるようにしたい。チューニングをしょっちゅうやらなくてはならないおおらかな楽器、けれど持ち運びが楽で手軽にアンサンブルをどこでもいつでもできる。レパートリーのジャンルと数をふやして、旅先でいろいろな曲をみんなで楽しめるようになりたいと秘かに企んでいる。
Copyright(c) 谷内田章夫 無断転載不可