アーキプラス

2016.10.31

58.アオコウ卒業の頃

コラムcolumn
写真:同期会が行われたスパイラル(槇文彦設計)
 渋谷区千駄ヶ谷に集合住宅を計画し、現在工事中である。新国立競技場の敷地のすぐそばである。コンパクトな住まいが68戸あり、コモン・ライブラリーを付設した13階建の集合住宅である。この付近は、母校である都立青山高校の近くで、明治公園、神宮外苑、新宿御苑など私にとってなじみ深い場所である。当時、畑も残り田舎の風情が残っていた世田谷から神宮外苑に通学するようになって、毎日が驚きと楽しさに満ちていたのをよく記憶している。そんなこともあり、仕事の話を聞いたときもクライアントのディベロッパーの方にも是非仕事をしたいと申し出た。
 高校入試の時、いままでの入試制度が変わり、学校群制度が導入された。行き過ぎた受験競争を是正、緩和するためであった。学校群の中で成績差を生じないように均等に割り振られる仕組みであった。青山高校は当時都立高校でもトップクラスの進学校である都立戸山高校とカップリングされた。しかし、私は幸運なことに青山高校に入学することになった。入学した当初は、伝統的な進学校ではなく、少し残念というような気持でいたが、すぐに変わった。場所がいい。何より校内が自由な気風に満ちていた。型にはまらない青春を謳歌する先輩たちを見て憧れと尊敬の念を抱いた。そしてすぐにみんな校風に染まっていった。
 2年生になるとまわりに政治活動する人が増えてきた。70年安保(1970年に日米安保条約の自動延長を阻止し、条約破棄しようとする運動)の影響であった。また、東大では学内問題がこじれ、ストライキまで進展していった。同様の問題が全国の大学に広がっていった頃である。政治活動に目覚めた同級生は中庭で立看板やプラカードを放課後、一生懸命に用意していた。政治集会のメッカ明治公園がすぐそばにあったのも影響の一つだったかもしれない。その頃、私はサッカー部一途の生活であった。当時、秋の新人戦で地区優勝し、東京都でベスト8になった。東京は関東大会やインターハイでは2校出場できるため、その調子で春の大会で勝ち抜いてあと2つ勝てば東京代表になれるという夢を見つつ、ひたすら練習していた。クラスの友人の活動を横目で眺めながら、サッカーのことばかり考えていた。そして、安田講堂がバリケード封鎖され、東京大学の入試が中止になった。
 高校3年になり、サッカーの夢は虚しくも破れた。3年の同じクラスに生徒会長である活動家がいた。彼はある会派の高校生組織の幹部であった。彼の行動力、指導性は群を抜いていた。私もある大学のバリケードの中にある、高校生による政治集会に行ってみたこともあったぐらいである。単なる見学でしかなかったが。9月になり、彼が中心になって、高校生の活動について校長に質問を迫ったところ、校長は、警察の力を借りて、生徒である数人を排除してしまった。そして、秋の文化祭は中止された。また、文化祭当日に集まってきた多くの生徒たちをまたもや警察の力を使って排除してしまった。問題はこじれにこじれた。授業は当然中止で、毎日、生徒の話し合い、生徒と先生の話し合いが行われた。話し合いは決着せず、ストライキ決議を行ったところ3年生だけが、ストライキが成立した。そのうち、強い意志のメンバーが集まり、全共闘が結成された。そのうちにバリケード封鎖された。10月21日国際反戦デーの日、全国で機動隊によってバリケード封鎖が一斉に解除された。青山高校も同様であった。バリケードに残った多くは警察にパクられ、黙秘した連中は少年鑑別所に送られた。学校はロックアウトした。中にはその間受験勉強に勤しむ奴等もいたが、私達は、日本近代史を勉強しようとクラスの仲間達と勉強会をしていた。また気晴らしにサッカーを校外でやっていた記憶がある。ほとんど授業もなく、卒業式などもなく、証書を渡され、3年生は追い出された。
 その後、それぞれの生き方は分かれた。大学に行く人、行かない人、大学を出て、銀行員や商社マンなどサラリーマンなる人、そうではない道を目指す人、ほんとうに様々だ。先日、青山の「スパイラル」で高校の同期会が5年ぶりにおこなわれ、50人ほど集まった。前回同じ会場で8階のアンクルハットというラウンジであった。前回は約80人集まった。ドロップアウト組はほとんど顔を出さない。
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