アーキプラス

2017.02.28

61.シドニーオペラハウス

コラムcolumn
 このお正月にシドニーに行ってきた。ヴァカンスに季節が真逆の爽やかな夏を求めたわけだが、シドニー・オペラハウスを見るという目的もあった。オペラハウスはホテルの部屋からよく見える場所にあった。前日、オペラハウスと並びシドニーの名物である高さ134mのハーバーブリッジを安全服に着替え3時間半かけて登るブリッジクライムに参加したが、そこからも常に目に入るのがオペラハウスであった。次の日、シドニー観光後オペラハウス1時間のガイドツアーに参加した。このオペラハウスは、1957年に当時無名であったデンマークの建築家ヨーン・ウッツォンが審査員エーロ・サーリネンに見いだされ、最終選考に選ばれ、16年の歳月をかけて1973年に完成した建築である。ヨットの帆や貝殻の群れを思わせる複雑で有機的なデザインを1度は見てみたいなと思っていた。屋根壁一体となった表面は約100万枚のタイルが貼られているが、内部の躯体(床階段を含めて)はプレキャスト(工場で成形された)コンクリートの打ち放しである。最高高さ63mの空間をすべてこれらで組み立てられている。その力強さとダイナミズムは空間の豊かさを生み。コンクリート打ち放しなので未完成のまま終わるのかと思われたらしいが、そのままでも重厚な質感をつくりだしている。その他仕上げには一部合板が使われているが、大屋根の架構体にホール空間を組み込んだ二重構造となっている。コンサートホールとオペラ劇場を中心として演劇などの小ホールが他に3つある。
 類例のない空間のため設計段階から難航した。当初案からの形態と工法を変更し、構造技術者のオブ・アラップによって構造設計を完成させた。それでも工事費の増加と工事期間の大幅な延長で、為政者の交代などもあり、1966年に設計者の主体性が失われるとみてウッツォンは設計者を辞任し、シドニーを去った。彼の地位は数人の建築家に引き継がれた。工事費は当初の14倍にも達しながらも1973年に完成した。それも宝くじ資金などにより1975年に完済されたそうだ。今ではシドニーのシンボルとして名声を得、市民、世界の人々に愛されている。2000年に一部内装の再デザインの合意が交わされ、当初のウッツォンの内装案がレセプションホールに実現した。この時ウッツォンは体調を崩し、建築家である息子が仕事に出向いたそうである。結局、彼は完成後のオペラハウスには残念なことに足を踏み入れていない。2003年にプリツカー賞を受賞し、亡くなる1年前の2007年には世界遺産(もっとも新しいもの)にオペラハウスが登録された。
 ウッツォンの建築は1981年にコペンハーゲンに行ったときにバウスベア教会を見た。それは倉庫や工場のような素っ気ない上屋の中にうねった曲面の天井が組み込まれ、洗練されたモダーンなルター派の教会空間がつくられていた。オペラハウスと同じ二重構造の構成だが、その外部の簡便性と内部の大逆転は驚きであった。シドニーのオペラハウスから学んだものが多かったのだろうか?その時にウッツォンはすごい!と思い。いつかオペラハウスを見てみたいというのが長年の希望であった。
 見学をした1月3日の夜には、日本で予約した現地で人気のあるビートルズ・バンドがでるコンサートを聞きに、コンサートホールに訪れた。選曲とアレンジに大分がっかりしたが、満席のオペラハウスのリアルな雰囲気を楽しむことができた
 このオペラハウスでは小ホールを含めて、年間約1300のイベントが行われ、大変な利用率である。また4つのレストラン、6つのバーが内外にあり、市民に人気のスポットとなっている特に単独にシェル型の屋根をかぶったレストランは、シドニーで最も予約のとりにくいレストランとなっているそうだ。観客席もステージを取り囲む形のものの先駆的なものであることなど空間性、機能性、文化性、多様性全てが揃っている。同時期には1963年竣工のハンス・シャロウンのベルリンフィルハーモニー(コンサートホール)がある。1981年に訪れたが、これも素晴らしかった。ミース・ファンデル・ローエのナショナル・アートギャラリーに並んで立つ、ベルリンの文化の殿堂のようなロケーションであったが、ダーリングハーバー湾に突き出し、王立植物園という自然も背後にした最高のロケーションには、これぐらいに手のかかった美しい建築がいいと思う。古典と肩を並べる近代建築の記念碑であることが体感できた。
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