アーキプラス

2017.07.31

66.中国旅行1985・1

コラムcolumn
 1985年1月、住宅雑誌からの依頼原稿(用紙30枚程)を正月三が日不眠不休で片づけて一路香港へ飛んだ。1ヶ月の中国旅行に行くためであった。それまで中国旅行は団体旅行に限られていた。しかし、徐々に開放都市を増やし、主な都市はどこでも行けるようになり、「地球の歩き方 中国編」も発刊された。もともとアジア文化が保存凍結されているアジアの社会主義国に興味があったからである。少し前まで文化大革命(1966年~1976年)があった国である。それから10年もたっていない。是非これを見たいと思った。
 香港へ向かったのは、香港から鉄道で深センに行き、ビザを発行してもらい、深センから中国に入国するためである。団体旅行者は、代理店の手続きでビザを取り、空路で直接、北京や上海などの空路を使って中国に行けたが、個人旅行者は、通常、香港→深センの入国ルートが一般的であった。
 当時何もなかった深センは通り過ごし、広州が旅行のスタート地点であった。今と違って人々の多くは緑色または紺色の人民服をまだまとっていた。都市間の交通手段は1ヶ月の間にまわることを考えると空路しか考えられない。しかし汽車も乗ってみたかった。飛行機も、長距離列車も個人旅行では事前予約はできず。前日まで中国民航や国鉄の窓口に並んで購入しなくてはならなかった。ただでさえ人が多い上に、割り込みなどが横行する、時間をかけて必死の思いでチケットを購入しなければならなかった。桂林と昆明の間は硬臥車に乗った。硬臥車とは3段の簡易寝台車である、軟臥車は1等寝台車、硬座車は2等車、軟座車は1等車である。車掌が熱湯の入った大きなやかんを持ってくる。インスタントラーメンを金属のカップに入れて食べる人もいたが、多くは蓋つきの陶器のカップに茶葉を入れ、お茶を飲んでいた。食堂車がついていたので私はそちらで青椒肉絲弁当のようなものいただいた。時折、停車時間にホーム出るパオツ(豚まん)を湯気を立てて売りに来る。そのパオツは日本で食べたことのあるどの中華まん(豚まん)よりもおいしかった。
 スポーツ仲間の友人がいる北京に向かった。夕方着いた北京空港は、現在の空港とは違い、隙間風の吹く、非常に殺伐とした空間であった。オンボロタクシーにのり友人の勤めている会社のある北京華僑大厦(現在のものとは違うようだ)に行く。これまで行ってきた経路を説明する。会社の中国人たちも、話には聞いていたけれど、自由旅行が本当にできるんだねぇと感心していた。その時北京は寒波が押し寄せ、想像以上に寒かった。川や池は全て凍りつき、上に人がのって氷を割って、釣りをする人がいた。最高気温が0度以下で芯まで体が冷えた。物珍しい光景に疲れを忘れ、足を棒のようにして街・名所・歩き回った。
 その先は最果ての地を目指そうと思い、西安→成都→ラサのコースをとった。西安は、城壁の街だが、昔から文化の交流地点で、イスラムの文化も交わって、行き交う人の目の色も顔つきも様々であった。一日中歩き廻る。疲れ果て、夕方屋台でビール瓶片手に羊肉串を食べていると日本語で話しかけられた。若そうな人だが、以前日本で働いていたそうである。どんなルートできていたのかは不明だ。こちらでも日本の歌謡曲が人気で「昴」とか「北国の春」は誰でも知っているそうだ。不思議に感じた。西安→成都は軟座車に乗ってみた。4人がけのゆったりとした1等のコンパートメントであった。三人の親子連れ、今の中国とは違ってお金持ちの風情ではなかったが、物価に比して一等車の鉄道料金はとてつもなく高い。公用で使える役人などでも相当上のクラスと思われた。
 成都駅につくが、足の調子が悪い。アキレス腱が痛む。仕方がないので輪タクにて錦江賓館に行く。日本語を勉強しているというホテルの従業員(美人!!)に医院を紹介してもらうことにした。連れて行かれたのは成都体育大学付属病院であった。アキレス腱を見てもらう。半分切れている。ここで手術をしますかと聞かれた。周りを見渡すと何とも殺風景な設備であった。東京に戻って、治療すると答えた。3週間の旅行で中断し、急いで、成都から北京に戻り、日本に戻る手続きを取った。怪我を気にしながら、帰途につく。何やら痛みが和らいできた。家に帰った時、ほとんど痛みはなくなっていた。翌日、家の近くの外科に行く。診断の結果異常なしであった。少しがんばりすぎただけなのだろう。そのリベンジをその夏行った。
そちらの顛末はヤチダヨリ14・高山病参照
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