アーキプラス

2018.08.31

79.ライオンズ贔屓

コラムcolumn
写真:メットライフドームのビクトリーロード
    ライオンズか勝つと選手が通る階段。来年から改修となり今年で最後らしい。
 今シーズンは野球観戦を存分に楽しめた。久しぶりに西武ライオンズがリーグ優勝したからである。私が野球好きなのは、ヤチダヨリ#40”多摩湖一周と野球観戦”で書いたとおりである。今年は18回も観戦した。サッカーも4回観戦した。野球とサッカーはどちらもドラマチックな展開が起こりやすい競技だ。実力の差がコンスタントに出てきにくく、やってみなければわからない。ラグビー、バレー、バスケットなどは実力のランク通りの結果になることが多く、番狂わせがあまりない。しかし、野球やサッカーはそうはいかない。特に、プロ野球の場合1位の優勝チームの勝率はよくて6割だが(今年のライオンズは6割を超しそうだが、)最下位のチームでも勝率はだいたい4割以上になる。ということは5試合あれば、1位のチームでも2敗はするし、最下位のチームだって2勝はするということである。予想はだいたい外れる。身の回りを見るとサッカーファンと野球ファンに分れる。最近はサッカーファンも増えている。特にワールドカップを中心とした代表戦は人気ある。でも、どちらかというと観戦するなら野球が面白いと思っている。サッカーは高校時代から競技としてやっており、今でもほんの愛嬌程度だが、フットサルの試合にもでる古くからのサッカーファンである。しかし、プロの試合を観戦するには野球の方が俄然楽しい。点数の出入りと逆転が多い。また絶えず緊張を強いられるサッカー(だからいいという人も多い)よりも緩急あって、リラックスしてみることができる。お酒や食事や会話を楽しみながら、観戦できるということか。とか、いろいろ理由はつけるものの、なんといっても贔屓のチームがあることが大きい。
 ライオンズ贔屓になったのは昭和33年(1958年)、私が小学校1年生の時である。その年は、長島茂雄が巨人に入団し、新人として話題になった。立教大学在籍当時から六大学野球リーグでの大スターですでに大いなる脚光を浴びていた。シーズン開幕前の3月には「長嶋茂雄物語」をラジオで毎日夕方放送していたのを憶えている。3番、サード(3塁)長島、背番号3の3づくしでデビューした。その年、彼は新人王に輝いた。 その年は、今上天皇が美智子妃との婚約が発表され、高さ333mの東京タワーが完成した年である。昭和33年は3がラッキーナンバーの熱い昭和を最も象徴する年であった。
その昭和33年にはじめて、日本シリーズを見ることになった。各家庭でテレビは普及していなかった。父親の社宅の長屋(テラスハウスと呼ばれていた)で暮らしていた我が家は、珍しくテレビを所有している上役の家に家族で行って、野球中継を見せてもらった。会社の大人たちが集まっていた。ほとんどの人が人気の巨人を応援している。対戦相手は負けが込んでいる劣勢の西鉄ライオンズであった。そういう中で判官贔屓となり、秘かにライオンズを応援し始めた。すると、投手の「鉄腕稲尾」の奇跡的な快投で3連敗の後、怒涛のごとく逆襲が始まり、4連勝でシリーズ優勝してしまった。これを機にライオンズの大ファンになる。以来遙か遠くにある西鉄ライオンズを応援するようになった。
 ずうっと東京にいたから、父親の会社のボックスシートや新聞店からのチケットが入るのが、主に巨人戦だった。子供のころ見たのはほとんど巨人の試合であった。高校時代は目の前に神宮球場がある都立青山高校に通っていた。神宮球場は当時サンケイ・アトムズ(ヤクルト・スワローズの前身)のフランチャイズであった。巨人の9連覇(V9)の真只中であった。サンケイ・アトムズは下位を低迷して、巨人の独走を許し続けていた。全く歯が立たないようであったので、失礼ながら、頼りないと思い、特に贔屓にはしなかった。(ただし、今はセ・リーグではヤクルトファンである。)1978年(今から40年前)に西武ライオンズとして九州から近傍にやってきて以来、ライオンズ贔屓が再燃した。かつての黄金時代(1982年~1998年?)は判官贔屓ではなく素直に喜んだ。しかし勝てなくなってきてから、より贔屓が強くなった。そしてやっと念願のリーグ優勝である。超攻撃型のユニークな戦法が、クライマックス・シリーズ→日本シリーズ→日本チャンピオンへと進むかどうかが楽しみである。
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