アーキプラス

2019.08.31

86.高原の夏

コラムcolumn
写真:志賀高原東館山山頂海抜2000m、雲の合間に北信五山を眺む。
 長野オリンピック(1998年)のアルペンスキー大回転競技のスタート地点となった。
 この夏、長野県の奥志賀高原(海抜1500m)で3泊、美ヶ原高原(海抜2000m)で3泊合計6泊過ごした。都会の酷暑から逃れ、のんびりと高原で涼しく過ごそうと思った。スイス旅行から7月16日に帰ってきた後、10日間ぐらいははっきりしない天気が続いたが、その後は酷暑を迎えた。スイスのモントルーでは、日中30度前後になることもあったが、明け方は15℃になるぐらいなので、朝晩は快適であった。但し、多くのところではエアコンはないので、昼間は暑く感じることが多かった。それに比して、東京の暑さは別格であった。35℃近くなり、湿度も高く、コンクリートやアスファルトからの照り返しがきつく、都市のヒートアイランド現象のため夜になっても、気温はあまり下がらない。エアコンをつけて寝る毎日であった。海抜が100m高くなると0.6度低くなるといわれている。海抜1500mだと9℃、海抜2000mだと12度下がることになる。美ヶ原高原の王が頭ホテルに問い合わせると最低気温は15℃以下、最高気温は20℃~22℃だといわれた。暑くも寒くもないちょうどいい気候だ。ということでこの夏休みは高原への旅行となった。
 奥志賀高原に行く前に久しぶりに苗場に立ち寄った。以前設計した31年前に完成したリゾート集合住宅が、今どのようになっているかを知りたかったためである。大きな丸窓からゲレンデを見下ろせる吹き抜けのあるメゾネットであったが、10数年前オーナーが変わり、会員制のリゾートホテルの施設となった。その中でも勧誘のための目玉施設となっていた。しかしその会社も倒産・再生となり、今はあまり使われていないようだ。隣のホテルの同世代のオーナーは、建設時にいろいろ相談したことがあったので、行けば彼に会えて、いろいろ聞けるかなとも期待してのことであった。川辺に近いテラスに人がいた。ホテルの宿泊客と勘違いしたためか、私を見ると「こんにちわ!」と声を掛けてくれた、声を聞いたら、すぐに彼であることが分かった。その顔をみるとむかしの面影は残っているが、さすがにお互いに年をとったなという感じではあった。30代前半に大手コンピュータ会社勤めから一念発起して、当時のスキーブーム真只中に開業した人である。今でもホテル業を営みながら、シーズンオフには精力的に自転車などの運動を行い、次の日はゴルフの試合に出かけると言っていた。リゾート集合住宅はどうなっているのか聞いてみた。維持費がかかるので、普段は閉じているが、冬はスキースクールの宿舎、夏も特定の人には貸しているようだ。苗場での夏の有名なイベント、フジロック・フェスティバルの時も使われていたようだ。見ると一部窓が開いていた。少し安心した。海抜約900mの場所は軽井沢と同じぐらいの高さである。しかし、ここでも近年、夏期エアコンは必要になることが多いそうだ。
 奥志賀高原では、毎日晴れた。麓の中野市では連日30度を超える暑さであったが、こちらでは最高気温は25℃前後 で快適に過ごせた。美ヶ原高原では、折しも台風が西日本を直撃していたこともあって、ずーっと霧のかかったようになり、冬に訪れた時とは違って全く景色の見えない世界でほとんど陽は差さず、雲の中にいるような状態であった。しかも平地よりも風は激しい音を立てて吹く。露天風呂をアルミサッシで囲んでいる意味がよくわかった。高原は晴れていればいいけれど、このようなリスクを生じてしまう。
 帰りは富士山のふもとにある富士ヶ嶺高原別荘地に寄ってみた。だいぶ前から自分の別荘を計画していた土地があった。いろいろな事情があって見合わせていたのだが、数年前コンパクトな妙案が浮かんだ。(ヤチダヨリ24「立体最小限別荘の夢」参照)海抜約1000mである。東京から80キロメートル程なので車で空いていれば1時間半ぐらいで楽に行ける。妻は難色を示すのだが、事務所の福利厚生施設としてつくり、時としてテンポラリーな仕事場として使えるのもいいかなと思っている。
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