アーキプラス

2024.01.11

100.ブラジル大旅行

 昨年の8月から9月にかけて、「アルゼンチン・ブラジル建築・都市・文化を巡る旅」に参加した。建築家の南條洋雄さんが企画された旅行で、建築関連の設計者、編集者、研究者とその家族総勢20名の旅行となった。その南條さんとは2018年のスペインポルトガル旅行以来、懇意にしていただき、2020年にブラジル旅行をかねてから予定し、楽しみにしていた。しかし、世界的パンデミックの影響で延期され、三年越しの待望の旅行となった。南條さんは1975年から1985年までブラジルで活動され、1985年より日本に戻り、南條設計室を主宰しておられる。ブラジルの建築界の要人との交流も深く、今まで多くの日本の建築関係者をブラジルに案内してきた。いわばブラジルと日本の建築界の橋渡しをやってこられた方である。久しぶりで最後の案内であるといっておられる。現地の事情に精通されているので、すべてお任せの旅であった。せっかく行くならとアルゼンチンのブエノスアイレスやイグアスの滝、アマゾンなどの観光名所も加わり、建築、都市、自然、生活、文化と大変内容の幅の広く深い充実した20日間の旅となった。
 ポルトガル領ブラジルの最初の首都はサルバドールであった。砂糖産業により栄え、農園の労働力確保のため多くの黒人がアフリカから奴隷として連れてこられた。彼らの音楽、踊り、宗教、料理など様々な文化がこの地にもたらされ、融合し、独特なアフロ・ブラジル文化として花開くことになった。その影響から黒人の割合が多い。ここでは発祥の地とされるサンバとカポエイラのショーを見た。街の広場では、バテリア(打楽器隊)が昼と夜となく響き渡っていた。
 そののちに首都になったのが、リオ・デ・ジャネイロで、農産物、金、ダイアモンドの輸出で発展し、サルバドールにかわりブラジルの首都となった。1960年のブラジリア遷都まで続いた。カーニバルが有名だが、独特の変化にとんだ地形で「山と海との間のカリオカの景観群」で世界遺産になっている観光都市でもある。かつてはアフリカからの奴隷の到着地であった負の遺産の港湾地区も、オリンピックやFIFAワールドカップで再開発がなされ大分治安もよくなったといわれる。
 その次がブラジリアである。内陸部の発展のためにかねてより検討されていたブラジルの首都移転によって生まれた都市である。1955年から1960年まで極めて短期間になされ、世界にも稀に見る遷都であった。当初は2000年に人口60万人という予測であったが、現在、周辺の衛星都市を加えると300万人の人口を有し、自動車は100万台もある。機能的につくられた交通システムも通勤時には大渋滞していた。都市の機能をゾーニングによって計画し、短期につくられた実験的な都市である。その界隈性の欠如から賛否両論というより、否の方が大勢を占めることが多いが、派生した生活像は近未来なのか、時代遅れなのか?
 クリティバは、1970年代から計画的な街づくりを行ってきた都市でゴミの問題からリサイクル、環境都市交通システムまで環境都市として世界的に知られている。特に専用レーン、多連結のバス、チューブ型のバリアフリーのバス停などを用い、日常の市民の足として使われている。住民の多くは、ヨーロッパからの移民でブラジルの中では富裕な都市である。
 アマゾン地域の中心都市マナウスは、コロンビア源流のネグロ川とアマゾン本流が合流する地点にある。19世紀末ゴムの生産で黄金期を迎えた。アマゾンは世界最長の川だが、川幅広く、水深も深いため、遠洋航海用の船も上流まで航行できる。そのため規制緩和を受け、世界中の企業が進出し、工業都市としても発展した。雨季と乾季の水位が激しく、気候変動の影響を最も多く受けるのではないかといわれている。ここでは外洋のような大河からピラニアの生息するジャングルまでクルーズを楽しんだ。
 最後に訪れたサンパウロは、南米最大の都市である。それだけに貧富の差を感じた都市であった。これがブラジルの縮図でもあるように思えた。ブラジルの各都市は、混血を含めた多様な人種構成、貧富の差、思い切った政策、また建築デザイン、都市の成り立ち、それぞれ異なるが、島国日本とは違うダイナミズムに近未来の社会を先取っているような気もした。
 2019年に行ったスイス旅行(ヤチダヨリ#87.スイスの食堂車#90.モントルー・ジャズ・フェスティバル2019参照)は最後の大旅行だと思っていたが、今回も二度目の大旅行となってしまった。ただ、これからも旅を続けたい。しかし、今回のようにジェット機で飛び回る旅行ではなく地を這うような旅として行こうと思っている。
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2023.07.18

99.東京の緑のネットワーク

日本青年館最上階16階のラウンジから母校都立青山高校(右)神宮球場(左)を見下ろす。
 昨年の5月に高校の同期会が行われた。卒業してから52年目の春であった。当初は卒業後50年目(半世紀!なんという長い年月)に際して、卒業式など何もなく卒業した我々(ヤチダヨリ#58.アオコウ卒業の頃参照)の一部の有志が50年前を偲ぼうという集まりであった。しかし、時のコロナ禍のため1年、2年と延び、ようやく1年前に開かれた。場所は日本青年館、以前は1925年に建てられたレトロな建物であったが、1977年に一度建て替えられ、人気のホールも併設された。しかし、2021年の東京オリンピックで国立競技場の建て替えに伴い、場所を変え、母校に隣接する敷地に2017年に移転して建てられた。日本スポーツ振興センター(JSC)と一体的に整備され、地上16階、延べ床面積3万㎡の巨大建築となった。会場は最上階16階の宴会場であった。ロビーを通過すると母校と神宮球場が見えてきた。参加者は77名。2011年と2016年にも同期会があったので、同じような顔ぶれでもあったが、コロナ禍が終わったわけでないので、前回の参加者が必ずしも出席しているわけでなく、新しく見かける人も多かった。年のせいか、亡くなった人もふえてきた。リタイアしている人が多く、昔の話、持病の話、孫の話などで花が咲いた。また、女性はいつまでも元気なのが目立っていた。
 入学当時は、世田谷の田舎中学(当時の世田谷桜丘近辺は畑も多く渋谷・新宿から比べると大田舎であった)から都会の高校に来た感があり、整った都市景観の中で何か大人になった気分を感じた。高校のグランドはいろいろな運動部が共用するため。絵画館を周回するランニングや銀杏並木でのうさぎ跳び(当時は観光客などほとんどいなかった)時として明治公園での練習などに周辺を使用した。また、美術の授業で周辺の風景を描くことになり、絵画館前の銀杏並木が人気を博した。ただ、高層ビルは建っておらず。校門の目の前には、東京ボウリングセンター(現TEPIAあるところ、当時からいろいろなゲームや飲食があり、遊びの殿堂であった。)やレストラン外苑があったが、ほとんどが平屋か2階建てであった。1969年に吉村順三設計の青山タワービルが建てられたころから高層化が進んだ。その前はのんびりした住宅街であった。表参道も人通りはあまりなく、同潤会青山アパートもひっそりとして建っていた。
 明治神宮外苑再開発で神宮球場や秩父宮ラグビー場が建て替えられる。2028年までに明治神宮第2球場と周辺の緑地に全天候型のラグビー場をつくる。2032年までに秩父宮ラグビー場と神宮球場と会員制テニスクラブのところにホテル併設型の野球場と野球場に接続した商業施設を完成させるようだ。その後2036年までに中央広場とオフィスと室内運動場とスポーツ関連宿泊施設を完成させるといわれている。敷地の大半は少し離れた地にある明治神宮が所有している。そこに大手商社・大手不動産会社・スポーツ関連の独立行政法人が絡んだ事業である。東京でも屈指の人気のある地域での利権が絡んだ巨大プロジェクトである。樹木の伐採などをめぐり故坂本龍一氏や村上春樹氏ら同世代の文化人の人達が反対を表明している。しかし、手続き上、このまま開発が進むであろう。1926年につくられた明治神宮球場は、我々が入学したころすでに相当古かった。それから55年。月日が経つのも早いものである。
 先日、北海道の北広島に完成したエスコンフィールドHOKKAIDOで野球観戦をしてきた。広大な敷地に神殿のような構えで、アメリカ大リーグで発祥したボールパークのコンセプトそのままである。広大な敷地での人の集まる開放的な都市的空間は確かに素晴らしかった。しかし札幌から相当に離れた人口5万人の都市での新しい試みである。明治神宮外苑再開発とは対極的な環境であった。神宮の森は、都心での貴重な樹木ではある。しかし局所的な樹木の保存にこだわらず、植生が豊かである東京では、神宮外苑を中心として東に東宮御所、外堀、皇居、北に新宿御苑、西に明治神宮、代々木公園、南に青山霊園などにつなぐように増やし、それを少しずつ、開放して行けば、世界中の都市にも稀なほど豊かな緑のネットワークとなるはずである。
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2022.04.14

98.苗場プリヴェ

 クローズドになっていた旧称苗場プリヴェ※(ヤチダヨリ#86「高原の夏」参照)で宿泊ができるようになったという噂を聞いて、早速様子をネットで調べてみた。苗場プリヴェとは、以前設計した1988年に完成したリゾート賃貸集合住宅である。オーナーが変わり、サンダンスリゾート苗場という会員制のリゾートホテルのコンドミニアムの一つとなった。しかしその会社が倒産・再生となり、小規模の施設(16室)なので事業効率の問題なのであろうか、一時閉鎖していた。そういった中でも以前からの会員のリクエストがあり、昨年リニューアルオープンしたそうだ。その際、一部を会員以外の枠を設け、旅行社を介在して宿泊できるようになったのである。1泊一人5000円(宿泊のみ)であった。内容を知っているだけに実にリーズナブルと感じた。事務所のメンバー5人で事務所の研修旅行とすることにした。
 この旧称苗場プリヴェは、大きな丸窓からゲレンデを見下ろせる吹き抜けのあるメゾネットが12室、全面ガラスのリビングに1寝室のフラットが4室ある賃貸集合住宅として建てられた。スキー場に面しており、リビングでは大きなピクチャーウィンドウのようなゲレンデ模様がヴィヴィッドに映り、夜はナイター照明を伴って,非日常を演出していた。また、スキーのオフシーズンでも斜面の緑が吹き抜けのあるリビングを支配し、同じく非日常を彩っていた。メゾネットで上下にバストイレ付きのツインベッドの寝室が2室あり、下階のリビングルームは吹抜けを介して上階のセカンドルームに繋がり、ソファベッドがおかれ最大8名まで宿泊可能であった。34年前の完成当時はバブル景気の中、スキーブーム真只中であった。しかし当時、リゾートといえば、ツインルームや大きな和室と縁側の組合せが定番であった。グループで楽しく集える空間はほとんどなかった。今なら広々したスイートルームも多く現れているが、このぐらいの人数が集まれる施設は意外と少なかった。しかも、集う空間がダイナミックで、他に類例を見ないと自画自賛していた。内装は34年も経ったので、客室は模様替えとなっていた。壁紙、カーペット、家具、カーテン地、キッチンセットなどすべて当初のものとは変更になり、だいぶテイストは異なっていた。しかし、開口部、階段など空間を構成するエレメントは依然と全く変わらないためか、雰囲気はそのままであった。パブリックの空間も打ち放しのコンクリートを多用したためか、これもほとんど竣工時のままの姿を保っていた。34年も経ったという感じは全くなかった。
 以前はフレンチレストランを併設していたのだが、現在は厨房を朝食用のみとなり、ダイニングの一部はオープンの共用調理場となっていた。夕食はここを使わず、部屋でオードブルと鍋のケータリングを利用した。以前はオーナーに気を使い、フレンチディナーにワインをオーダーしていた。しかし、当時の事務所のスタッフ連中は、鍋を持ち込み大人数で宴会を堪能していたことを思い出した。これがいいのだ。
 途中でサンダンスリゾート苗場の方に聞いてみた。普段は3人で冬場はもう一人加わって管理しているそうだ。いずれも車で通えるところに住んでいるということであった。よりコンパクトな管理体制で長続きしてほしいと思った。おおいに盛り上がっていた巨大スキー場も現在はスキー人口が減少し、苗場スキー場も規模を縮小して営業しているようだ。ただ、冬季雪深いところが、大都市圏の近くにあるという立地である。日本の環境にあったリゾート・スポーツとして見直される時が来るかもしれない。その時までずうっと存続して、スキー・温泉・自然ウォッチングなど多様に楽しめる施設になってほしい。平日であったので、おそらく会員の家族であろう学生のような感じの若い人たちだけの集団を多く見かけた。若い人に愛されるといいなと思った。また何回も来ようと思った。
 
 ※北山恒・木下道郎と共同設計
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2022.01.17

97.プレミアム・ラウンジ

 2010年バンクーバーへのトランジットでシアトルに一泊した時のこと。イチローの試合を見ようとセーフコ・フィールド(ヤチダヨリ#31)に行った。しかし、日にちを一日勘違いして、その日は試合なしであった。残念。しょうがないので、球場見学のツアーをと思っていたところ、すぐに日本語解説のツアーがスタートするところであった。参加者は私ひとりであった。日本人の女性が専属で案内してくれた。イチローのブースのあるロッカー・ルームやダイニング・ルーム、VIP ROOMなどを案内してもらう。中には廊下を兼ねた始球式のウォーミングアップのためのキャッチボールのブースなども見て回った。観客席もいろいろ案内してもらい、最後はネット裏の特別席にいった。すると階段で席の下に行くとクラブのような空間が直下にあった。そこでは、試合前、試合中、試合後と飲食しながら歓談のできるラウンジとなっていた。さすがに野球の先進国、チケット代も全般的に日本より、相当に高かったが、野球を楽しむ文化が進んでいると感じた。
 贔屓の西武ライオンズ(ヤチダヨリ#79)が西武ライオンズとしての創設40周年を2018年に迎えたことを記念する事業として、2017年末から2021年春にかけて、西武ドーム(メットライフドーム)内外に手を加え、本場アメリカでは日常化しているボールパーク化することになった。バッターボックスの後ろの部分にグラウンドレベルの観客席を新たにネット裏席の下につくり、その後ろにネット裏のプレミアム席専用のラウンジが新設された。是非そのラウンジを使ってみたいと思った。以前ネット裏席に行った時は、展望レストランで食事をしながら観戦したこともある。またビクトリーロードという中央に階段があり、勝ちゲームの場合は、試合の終わった選手たちはその階段を上って退場するため、選手に声をかけたり、ハイタッチもすることができた。(コロナ禍では考えられないことだが)なんと贅沢な席であることか。料金は1万円以上でアメリカではそれほど高い席ではないが、日本のスタジアムの中ではなかなか高価である。でも他にない素晴らしい席であった。それ以外でも10年ぐらい前にダグアウトのすぐ上の部分にテーブル付きの5名のボックス席ができ、それをアウェイチーム側に陣取り、アウェイ側のファンである仲間を呼び、呉越同舟で飲食を楽しみながら観戦するというのが最近のパターンであった。年に1度か2度ぐらいであったものが、ライオンズ贔屓が昂じて、この数年で年間観戦回数が、20回を有に超え始めた。またスタッフも知らず知らずのうちにライオンズ贔屓になっていた。
 そのラウンジを使うにはネット裏の席の中でもグラウンドレベルのエキサイトシートであるか、プレミアム席の年間予約シートでなければならない。そこで改修が終わった1年前、ネット裏のプレミアム席年間予約シートを2席とることにした。毎試合を見るわけではないが、「チケットリ」というシステムもあり、行くことができない時や行かなくてもいい時は交換することもできる。また、年間予約席を購入した人は他のシートを優先して購入できる仕組みもあり、多人数で行く場合もいろいろな席が確保できるのでまた楽しいであろうと思ったからである。
 しかし、2021年もコロナ禍で飲食は制限されている期間も多く、いろいろな人を誘って行くということは避け、極内輪の人に声をかけて行くことにした。その代わり年間予約の特権を生かして、グラウンドレベルのエキサイトシート、ダグアウト直上のボックス席、ブルペン直面の被りつき席などいろいろな角度から観戦できた。その料金の合計で年間予約料金に達しなかった分は次の年の分を割引くことになった。おかげでソーシャル・ディスタンスを保ち、ゆったりとした環境の中でマスクを着用して、拍手の応援とノー・アルコールで20数試合を楽しむことができた。
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2021.10.15

96.オーディオ遍歴

自宅近所の量り売りのお肉屋さん
 今までいろいろな音楽に接して、楽しんできた。母親が音楽好きだったので、子供のころから親しんでいた。とはいえ子供のころは、真空管ラジオから流れる歌と母親の口ずさむ歌ぐらいであった。幼稚園に通い始める頃、同じ社宅に住む、電気工作が好きなおじさんが、我が家に電蓄をつくってくれた。ラジオも聞こえる蓄音機であった。78回転の分厚いSPレコードによって、クラシックや童謡、洋楽が我が家にもたらされた。テレビを購入する前まで我が家の中心に鎮座していた。
 小学3年生になると17cm片面モノラル録音のソノシートが1冊につき4,5枚ついている「世界音楽全集」という本を我が家で購入した。筑摩書房より毎月1冊刊行された。1960年11月から1963年12月にかけて全40巻発刊された。全部で30ページ程の曲の紹介・解説,エッセイ,演奏者の略歴と紹介があり、中身は小学生には難しくてわからなかったが、毎月届いたソノシートを聴くのが楽しみであった。小学校で習う音楽よりもクラッシック通好みの選択なので難しい曲が多かったが、いろいろなジャンルをカバーしていたのでこれを聴けばクラッシック音楽がわかると思い、夢中になって聴いた。そのおかげで、中学2年生の時の夏休みの音楽の宿題では、多種多様な音楽の感想文を書いているうちに数が増え、30曲ぐらい書いて提出することができた。結果は100点満点であった。
 ビートルズに夢中になった1964年からは、当時はやっていた家具調のコンソール型ステレオが欲しくてしょうがなくなった。兄が街で拾ったお金が1年経ち、償還された資金を元にコロンビアのステレオを購入してもらった。丁度FM放送が始まったころでもあり、自分の部屋に置き、帰宅後毎日聴きまくった。おかげでポピュラー音楽に詳しくなり、学年でも有数のポピュラー音楽通となった。
 その後、テープレコーダーを買ってもらい、ラジオ放送を録音したりした。それはギターのアンプが代わりにもなった。下手くそなギターを小音量で聴くことができた。高校に入ってからはサッカー中心の生活になったせいか、ポピュラー音楽の興味は薄らいできた。そのかわりにロック音楽の興隆に目を見張り、またモダンジャズなどを聞くようになった。
 大学2年の時に突発性難聴になり、右耳が多くの周波数域で聞こえなくなった。ギターの音をテープレコーダーから右耳にイヤホンで聞こうとした。出力オーバー気味で大音量で聞こえるかのようにしたせいだと思った。難病で治らないようだ。すると音そのものがまた恋しくなった。手軽に持ち運べながら音質もよいラジカセが出始めた頃であった。出力3.8Wのアイワのラジカセは小さな空間では十分な音量と音質をもたらせてくれた。
 大学院に進んだ頃、コンポーネントタイプのステレオがブームになっていた。学費は当時の国立大学は月3000円であったが、(その4年前はなんと月1000円であった)家庭教師のアルバイトは続けたが、より自由に活動できるように日本育英会から奨学金を受けた。確か26000円だったと思う。次の年には28000円になっていた。今なら10万円は優に超す金額である。申請後7月に4か月分が下りてきた。10万円超の資金を持ち(今なら50万円ぐらいか?)不徳ながら、コンポーネントタイプのステレオを買った。大出力のパイオニアのパワーアンプとチューナー、オンキョーの縦型スピーカー、シュアのカートリッジが付いているビクターのレコードプレーヤーであった。これもリビングルームの中心に置き、モダンジャズやブラック・ミュージックを聴くのが、帰宅後や週末の楽しみとなった。
 その後、ウォークマンが出たりして、音楽の聴き方も変化してきた。しかし、イヤホンの音質はいまいちであった。最近になってスマートフォンの音楽配信とイヤホンの音質が著しく良くなったせいもあり、またブルートゥースを利用したりして、いろいろな場所で音楽を楽しめるようになった。逆にオーディオ装置そのものを利用して音楽を聴く機会が少なくなった。しかし、これからは妻の医院の閉院後、待合室と診療室をつなげた天井高5㎡の50畳の大空間に4m×4mのスクリーンに映像を映し出しながら、良質なオーディオ装置を導入し、音楽を聴くのを夢見ている。
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2021.07.08

95.住居表示

自宅近所の量り売りのお肉屋さん
 事務所の向かいにある古い佇まいの家。その門柱には淀橋区諏訪町と書いてある。事務所をこの地に移した2005年からこのままである。ここは新宿区西早稲田である。東京都新宿区は1947年に当時の東京都四谷区、牛込区、淀橋区が合併して生まれた。その当時のままで門柱を残してある。西早稲田とは早稲田通りを挟んで両側にある広いエリアで旧淀橋区戸塚町1丁目、2丁目、諏訪町、牛込区高田町、戸山町の一部または全域をまとめてつけられたものである。早稲田の西であり、わかりやすいといえばその通りであるが、何か歴史のかかわりもない味気ない名称でもある。日本の住居表示は一般に街区方式と呼ばれ、街路で区域を分けている。また、1962年5月10日に施行された法律によって、わかりやすく、郵便物を配達しやすいようにした。確かに、都道府県、市区町村、町名、丁目、番、号の順にヒエラルキーをつくると、順番にエリアが絞られて行って、たどりやすい。昔住んでいた世田谷区経堂も小学生か、中学生の頃〇丁目〇番〇号に変わったように思う。それに慣れているのでごく当然のように受け入れていた。
 パリ帰りの大学の先輩との酒席で東京とパリの住居表示の方法の違いが話題になった。彼は、パリのように通りの名前に番号をふるやり方(欧米で一般的な道路方式)がアイデンティティがあり合理的であるといった。その前にお中元の配達で旧制度の番地で四苦八苦していた経験から現在の日本の住居表示はそれなりに段階的に的を絞り、非常に合理的であるような気がした。それを言うと、どうして君は理解できないのかと叱られてしまった。外国旅行に行ったことのなかった自分には比較できずよくわからなかった。
 それから数年経って、ヨーロッパ中を旅行して回った(ヤチダヨリ#10 建築の旅 Ⅰ 参照)都市に着くと駅のツーリスト・インフォメーションに行き、シティマップをもらい、その際住所のわかるところはAからZまでの通りのインデックスから探し出し、地図上のタテヨコ(大概はAからZと1~の数字)の記号(例えばA6とかF7)で通りのある部分を特定し、その中からその通りを探すことになる。少し面倒くさい。謎解きをしてゆくようでもあり、それを解明してゆくのが楽しみとなっていった。わからない場合や住所そのものがわからない場合はインフォメーションで指差しをして教えてもらいゆき方も教わるといった具合である。最終的には、ほとんど解明してゆき満足感を得ることができた。しかし、慣れないとまた慣れていても面倒くさい気がした。
 それからだいぶ経った15年ぐらい前のこと、フランス・プロバンス地方をレンタカーで旅行した時のこと。当時ヨーロッパでは、レンタカーにカーナビは普及していなかった。が、試しにリクエストしてみる。町(シティ)と通り名と番号を入力するだけで距離と時間と経路が表示される。これは楽だ。Go to the left とか If possible U turn please などと音声でいろいろ教えてくれる。右側交通、左ハンドル、ラウンドアバウトなど交差点での曲がり方の違いなどのハンディを解消してくれた。これは便利だと思った。曲がるところを間違えても、補正してくれ、最終的に目的地にスムーズに導いてくれる。これなら、入力さえすれば簡単にたどり着くことができ、海外で運転することハードルが下がったと思った。今だったら、スマホで十分機能し、行き方も何番のトラムに乗れとか指示してもらえるから、何と便利になったことかと感嘆することだろう。そういう意味では道路方式であろうが、現在の街区方式であろうが、使い勝手の上では大差なくなってきているように思う。
 ところで、新宿区は牛込柳町や神楽坂近辺で、古い地名を細かく残している。その経緯はよく知らないが、都内では珍しい。どのような経緯があったかはわからないが、過去とのつながりを残そうという運動があったのかもしれない。お陰で、事務所のある西早稲田近辺では、地蔵坂、茶屋町通りとか通りに名前を付け、数年前から由来を表示している。やはり、過去とのつながりを日常的に感じられるのは嬉しいことだ。
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2021.04.26

94.リサイクル

自宅近所の量り売りのお肉屋さん
 人口減少といわれる中で、都心ではどんどんビルが建てられている。私が学生であった1970年代東京の山手線内の平均階数は2に達していないといわれた。平屋の建物が多く、高層ビルもあったが、平均するとそんなものだった。ニューヨークの高層高密度、パリの中層高密度に対して低層高密度の東京といわれていた。東京はシティではなくビレッジだともいわれた。それから50年近く経った今、各所でこれだけの超高層をはじめとして多くのビルが建てられてきた。その平均階数が4になろうとしている。その当時には想像しえなかった量の超高層ビルが林立してきた。東京だけではなく、世界中がである。そういう中で自分自身も平均すれば階数4を超える建築を設計してきた。本当にそんなに建て続けて大丈夫なのだろうか。素朴な疑問だ。
 1972年に発表されたローマクラブの提言「成長の限界」では「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らした。「人は幾何学級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」その直後にオイルショックとなり、資源は有限であることを世界中が認識し始めた。その流れの延長でSDGsが生まれた。これは国連が掲げた2030年までに達成すべき「持続可能な開発目標」である。
 コロナ禍になって以来、飲食店での食事はなるべく控えている。特に仕事の折りは、近くのなじみの飲食店から持ち帰りで済ましているが、ヤチダヨリ#89「自粛要請期間中に思うこと」で書いたように、食事は自炊がほとんどである。また、スタッフは原則在宅勤務としているため、自転車・徒歩通勤のKさんと車通勤の私は共に、厨房男子であるため、それぞれが食べたいものをサッと作って食べている。そこで気になるのは、スーパーやコンビニで小分けにして売られているものの多くが過剰な包装であることだ。そのほとんどがプラスチック製品である。時折メンバーが集まった時に頼むテイクアウトの包装もかなり過剰である。そして器、スプーン、スープカップ、包装袋すべてプラスチックである。そのプラスチックの多くは化石燃料である石油から作られ、多くのCO2を発生しながら、分解に長時間要し、自然界の生物に悪影響を及ぼす。悪循環である。
 私が小さい頃は醤油やお酒、砂糖などの調味料をはじめ食品のほとんどが量り売りもしていた。八百屋、魚屋、肉屋などの小さな商店の集まった市場に行くと網かごに直に入れるか、竹皮などに紙または新聞紙などで紙ひもや輪ゴムにくるんで買っていった。そのうちスーパーストアが現れてから変わってきた。70年代に入ってから、プラスチックゴミが増えてきた。レジ袋廃止は考えるきっかけを作ったが、ゴミはどんどん増えてゆく。今更ながらこのままの消費の増加、はたまた経済の成長は本当に必要なのかと思えてくる。
 石川英輔さんの『大江戸えねるぎー事情』によると江戸時代は「リサイクルが発達した理想的なエコロジー社会であった。」と述べている。江戸は人口100万人を超えた世界最大の都市であったが、消費は藁、竹、灰、なたね油など太陽エネルギーの有効利用をしてムダのない暮らしの知恵でリサイクルされてきたといわれる。鎖国、人の往来の制限など封建的で非近代的なイメージが強かった江戸時代だが、コロナ禍の現在ではむしろ新鮮なシステムのように見えてくる。島国で孤立しながら、限られたエネルギーをできるだけ効率よく利用するための努力の結果、独創的で多様性に富んだ文化が生まれたのである。私たちがこれまで暮らしてきた日本では、敗戦後の復興、高度成長、バブル経済の崩壊、負のスパイラル、グローバリゼーションと目まぐるしく変化してきたが、経済成長が社会の繁栄ではないと身をもって知る時期が来た。そのためには、衣食住を始め、身の回りのものや暮らし方から見直さなくてはならないだろう。
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2021.02.04

93.ソーシャル・ハウジング

 30年近く前に設計をした熊本の会社から、関連会社の改築の相談を受けた。1期2期と順次建てられた老朽化した本社ビルの建て替えについてであった。しばらくすると時はコロナ禍になり、資料をもらって検討はしたが、建物の状況がよくわからない。時間はかかったが、とりあえずの提案をまとめZOOMを使って打ち合わせをした。しかし、実態とは相当ずれているかもしれないという不安があった。やはり実際に現物を見てみなくてはならないであろうと思った。時間は経ってしまったが、打ち合わせを兼ねて事務所全員で3泊4日で熊本を訪れることになった。感染者の多い東京から、熊本に訪れるということで5人全員PCR検査を行って、陰性を確かめてから向かった。
 久しぶりに熊本市に訪れることになる。スタッフは全員熊本県は初めてであった。12月3日にクライアントと会う。実は、社長は熊本地震後の奮闘のさなか、病魔に襲われ他界された。明治11年創業の会社は奥様が社長となり、以前は幼児であったご子息が役員となり、業務も多様化されていた。27年ぶりの再会となった。月日の流れを感じるが、ついこの間であったようにも感じた。早速、建物を見学に行く、百聞は一見に如かずである。会社の運営環境は手を取るようにわかった。やはりこちらが提案していたものは、多少無理があったと感じる。翌日の打合せでそのことを直接伝え、他の選択肢を検討することになった。
 打合せの後は、熊本の建築探訪である。熊本では、当時熊本県知事であった細川護煕氏によって1988年から始まった「くまもとアートポリス」という事業があり、公共建築を中心にいろいろなプロジェクトが進められていた。1987年に開催されていたベルリンIBA(国際建築展)を参考にして、建築や都市計画を通して文化の向上を図ろうというコンセプトであった。「くまもとアートポリス」は集合住宅を中心とした力作が多かった。それを中心にみることにした。
 まず、県営保田窪団地を訪れた。これは以前何回か、訪れたことがあり、内部も見せてもらい、実際に住まわれているところを見学したこともあった。山本理顕さん設計の外に閉じ、内に開いたコンセプトが有名で、いまや集合住宅の建築計画の問題として建築士の試験にも出るそうだ。形態表現の強さから、多少の朽ち果てた感が否めない細部も気にならないほど力強さを感じた。ただ、コモンの中庭は12月の平日の昼間であるせいか、ひと気がなく、物寂しかった。築後30年近く経ち、居住者の老齢化の影響か?
 次にその近くにあった県営竜蛇平団地を訪れた。故元倉真琴さんの設計で日本建築学会賞受賞作品であった。その祝賀パーティで見たスライドでは造形的な構成美に感心したが、セットバックしていく住戸構成は、通り抜けと組み合わせて階段によって開放感ある住戸のつながりをつくっていた。周辺とのつながりにおいても敷地に行って初めて了解した。
 そのあとに市営新地団地を訪れた。これも一部だが、作品の完成直前に見学したことがあった。5人の建築家が、各様のデザインコードで向かい合う形で延々と続く、巨大建築群である。広大な敷地にそれぞれ存在感を示している。夕方に差し掛かっていたので外で遊ぶ子供たちも出てきた。一部は代替わりしたということか。ハト除けのネットが緑色や青色で賑やかに張られている。その場しのぎという感じで、洗濯物といろいろな生活物がバルコニーに置かれ、雑然とした部分が目立っていた。
 日本の公営住宅は住宅政策におけるセーフティネットの一環であるためにメンテナンスコストは微小にしか投じられないことが多い。民間の賃貸住宅だと、募集に競争の原理が働くから、必要な手当ては常に必要になる。以前訪れたオランダのアムステルダムにあるソーシャル・ハウジング(ヨーロッパの賃貸公営住宅)の建築群は第一次世界大戦後に建てられたにもかかわらず、いまだに美しく使われ、街のシンボルとして観光名所となっている。これらの集合住宅を見て改めて感じたのは、日本の公営住宅法の基準がある中で、よく作られたということである。日本の公営住宅の枠を超えた都市景観が生まれたのは確かである。もう少し丁寧に手を加えて、良き時代の行政の残した産物を生かしてほしいと思った。
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2020.12.04

92.犬派?猫派?

我が家のアイドル ドーベルマンの縫いぐるみに乗る
 運動不足のため、毎朝、毎夕散歩をしている。(ヤチダヨリ#89.自粛要請期間中で思うこと参照)公園を通ることが多いが、一日に何十匹もの犬に遭遇する。しかも多くは小型犬である。プードルやチワワや小柴が多い。流行りか?路地裏も歩くが、猫がいるかと思いきやあまり見かけない。家飼いが多くなったせいか?
 義妹がシーズーという小型犬を連れてきた。以来、我が家は一人家族が増えたようになった。広く天井の高い室内で床暖房のある空間は、さぞかし犬にとって気持ちの良い環境だろう。すっかり家族・空間になじみ、以来家族をつなげる存在になった。もともと動物好きであった。今の建築の仕事でなかったら、獣医もいいかなと思っていたぐらいである。もっともトカゲやヘビは苦手なので無理だと思うが・・・。しかし、犬にはあまりなじみはなかった。ただ、子供のころしょっちゅう往来していた動物好きの従兄の家では、いろいろな生き物(インコ、ヒヨコ、ニワトリ、虫、ウサギ、亀、鯉、金魚)を飼っていた。中型犬のコッカー・スパニエルも飼っていて、散歩によく同行した。せわしなく動く。犬小屋で飼っていたせいか、少し臭かった。興奮すると吠え、人間の顔色をうかがう。時折、まとわりつき、舐められるとかなり、ウエットな唾液がべちょっとついた。ちょっと苦手であった。実は犬には怖い思い出もあった。小学校低学年のころだと思う。夜中社宅においてあったゴミ箱にごみを捨てに行くように母親に言われて暗闇の中ゴミ箱に向かった。コンクリートでできたゴミ箱の木のふたを開ける。すると黒い瞳とともに「ワン・ワン」と吠え声が闇夜に響き渡った。ゴミ箱の中に野良犬が暖をとっていたのか、エサを探していたのか、潜り込んでいたのである。ゴミを捨てることを忘れ、一目散に家に逃げ込んだ。当時、野良犬が街を徘徊していたのである。また、北海道一人旅をした大学1年生の夏、1971年8月のことであった。標茶という当時の国鉄の駅の長く伸びた軒下に寝袋で野宿していた時のことである。周りには数人の同じ一人旅がいた。冷夏で風邪をひき気味だったので、元気づけのため近くの飲み屋でジンギスカンと熱燗をいただき、その勢いで寝袋に入り、眠りについた。寝静まったころ、何やら周りに音がする。すると突然犬の遠吠えが始まった。「ワォー」近くにいるらしい。だんだん耳元に近づいてくる。すると遠くでも遠吠えが聞こえてきた。少しずつ、増えているような気がした。何やら、野犬たちが集まってきたようだ。まさかオオカミじゃないだろうな?不安がどんどん募り気が気ではなくなってくる。このまま噛まれ、噛み殺されたらいやだな。逃げるわけにもいかず、じーっとこらえる。どうしようもないなと腹をくくる。すると知らないうちにまた寝込んでしまった。いまだに強烈にその恐怖感を覚えている。
 私の母親が無類の猫好きで、家に舞い込んだ猫を餌付けし、いつも2,3匹は飼っていた。身近に猫がいたので猫の扱いには慣れていた。嫌がること喜ぶことがわかっていたので、いじめたり可愛がったりして楽しんでいた。猫は人間の顔をうかがうことなく勝手気ままに行動する。なめられてもドライである。しかし、爪を研ぐため、家じゅうを傷つけボロボロにする。マーキングのオシッコ(特に雄が激しい)のにおいが強烈であった。また食べ物をドロボーする。獲物を口にくわえて見せに帰ってくる。時にはどこかの家で飼っていただろう小鳥の頭を加えてきたこともあった。「コラッー」と頭をひっぱたく。
 妻の家は昔、家で犬を飼っていた。しかし。母が犬の毛にアレルギー反応があり、つらい思いをしたそうだ。調べてみたら妻の方は猫の毛にアレルギー反応があったという。私は犬と猫の蚤にかまれるとひどいアレルギー反応があった。したがって、家ではペットを飼わないことにしていた。しかし、我が家の新しい家族は定期的にトリミングやシャンプーをしているせいか、蚤は生じず、匂いもほとんどしない。よっぽどのことがない限り、吠えたりもしない。こちらが帰ってくるとまっしぐらに向かってきて、飛びついてくる。しっぽを振って。そんなに喜ばれるとこちらも嬉しくなる。すっかり犬好きになってしまった。人間も動物も環境、体験によって好みも変わるのであった。
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2020.10.12

91.天気予報

雨雲レーダー
 天気予報をいつも気にしている。毎朝ネットで見てから2,3時間おきに見ることもある。アンケートの趣味の欄には、音楽、スポーツ、旅行という一般的なものに加え、「時刻表」と「天気予報」と書いているぐらいだ。しかし、子供のころは、運動会、遠足などのイベントの時は気になったが、さほどではなかった。しかし、台風の時は別だった。小学生当時、伊勢湾台風、第二室戸台風などの大型台風が本州に上陸し、大変怖い思いをしたからである。刻々と伝わるテレビの天気予報が気になった。特に中心気圧と最大風速については気になった。それは今も変わらない。その後、高校に入ってサッカー部の練習では雨にかかわらず、練習は行っていたし、試合も行われたが、ぬかるみのグラウンドは最悪であった。しかし、あまり、天気予報を気にしなかった。与えられた運命は仕方がないと思ったからだ。雨が降るか降らないかは雨具を用意するかどうか程度であった。
 気になり始めたのは、仕事を始めてからである。コンクリート打設の日、強雨は厳禁である。また積雪や氷結はさらにまずい。これだけは避けなければならない。また、慣れない正装(最近はあまりしない)する地鎮祭、木造の上棟などいろいろあった。が、一番のきっかけは、竣工写真を撮るようになってからだ。設計した建物の写真を撮るわけだが、できれば快晴の日光の下で撮り、写りを明るいイメージのものにしたい。写真家と撮影日の数日前から、また前日、当日と連絡を取り合い、その日の予定を確かめ合うことになる。彼らの仕事は天候に左右されるので天気予報には相当敏感である。撮影日を次の日にずらすことができればよいが、撮影不可能な日や写真家のスケジュールもあり、そう簡単ではない。余裕があればいいのだが、締め切りや引き渡し後は、建築主側の都合もあり、日程は選べない。あらかじめ撮影の予備日を決めるが、思う通りの天気になるわけではない。雨天が重なり延期が1か月以上続いたこともあった。しかし、大方は、それなりに撮影を進めることが多い。インターネットで雨雲レーダーを見つつ、撮影を続ける。食事・休憩・有形の準備など先の時間のスケールに合わせて、スケジューリングする。以来、旅行に行くときの服装や窓からの景色なども予報を見て、あらかじめ予想しながら出かける。そして当たり具合外れ具合を楽しむことにしている。ゴルフ、テニス、フットサルをするときなどなおさらでそのチェックは怠らない。最近の例をあげると。コロナ禍の中で私は太陽光発電によるEVでの通勤している。運動不足解消のため根拠はないが、毎日10kmのウォーキングを課している。毎日それをこなすは結構大変だ。毎朝夕、天候の良い時を見計らって散歩に出かける。その際、出かけるタイミングを見るのが、iphoneの天気予報サイトである。これによって前日のウォーキングの時間帯を考え予定をたてる。そしてそれから頼りになるのは雨雲レーダーである。1時間程度までの雨具合は非常の正確である。これにいつも頼っている。
 気候の安泰が望まれるのは大昔から人々の願いだ。それを予測するため、大気に関するデータを多く集め、気象学の理論により予報をするわけだが、自然の大気の変化は複雑であり、気象変化を完全に理解・表現することは非常に困難である。スーパーコンピュータを使っても予想量が増加するのに応じて、予測が不正確になってしまう。そもそも流体運動の予測は厄介であり、カオスの世界である。
 以前大学の同級生であった3名で運営していた設計事務所「ワークショップ」では、経営の状況を月1回検討しようということで「ウエザーリーポート」と称した会議を3人で月1回行っていた。人気ジャズグループ「ウエザーリーポート」と重なったためお気に入りのネーミングであった。そこでは、今後の経営状況の予測がメインだが、立てるとともに今後の活動方針について話し合った。いつでも不測の事態は起こるかもしれないが、半年先、1年先ぐらいは大方見当がつく。もっと先が読めればいいが、そうはいかない。
 個人の行動についても、時間のスケールに対応した「天気予報」を行いながら、臨機応変に対応できるようにして行き、「天気予報」を楽しみながら暮らしたい。
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