アーキプラス

2016.12.31

60.棲家遍歴

コラムcolumn
写真:自宅のリビングルーム。
白い箱が12個建ち並ぶ。向かいの2つは2階へ上る階段。
その中にはそれぞれ90個のグリッド状の本棚が潜んでいる
 私は1951年新潟市中央区下所島で生まれ、2歳までいた。その後、父親の転勤で新潟県柏崎市に移り約1年間過ごした。いずれも石油掘削の会社の官舎の様な木造平屋建であったが、後で見た白黒写真のイメージが重なるだけで、直接はほとんど憶えていない。ただ、道路にあった側溝の幅が広く、怖かったように記憶している。同様にくみ取り方式の和式便器も恐怖であった。
 父親がまた転勤になり、3歳で東京都小金井市の会社の寮に引っ越した。南北に2棟分けて建てられ廊下でつながった。方廊下の木造2階建の共同住宅であった。共用の玄関には、共同電話があった。南北2棟をつなぐ廊下には共同風呂がリンクしていた。時間帯で男女か交互になり、夕方になると子供は毎日、母親に連れられていっていた。つなぎの廊下の2階が共同洗濯場で、母親たちが1列に並んで仲良く洗濯をしていた。
 5歳から18歳まで東京都世田谷区経堂この頃についてはヤチダヨリ28.内と外の緩やかなつながりに書いてあるとおりである。時期的には私の精神構造が確立された開放的な社会、空間を過ごした。
 高校を卒業するとヤチダヨリ5.住む場所に影響を与えるベクトルで書いた要因で東京都保谷市(現西東京市)ひばりが丘に引っ越した。木造2階建の中古建売住宅をリビングルームを広げて住むことになった。18歳から結婚する34歳まで暮らした。独立性が高まり、多少、プライバシーがとりやすくなったが、大学、大学院、事務所創設期の時代であり、家は寝に帰ってくるだけのねぐらであった。
 結婚後、34歳から36歳まで東京都世田谷区砧にある壁式RC造3階建の3階に住んだ。これは共同主宰の設計事務所「ワークショップ」で設計した賃貸集合住宅であった。ここでは1年半くらした。小田急線の成城学園前駅から閑静な住宅街を通り抜けていくという同じ沿線にいたことはあったが、庶民的な経堂や千歳船橋とは全く違う環境であった。初めて自ら設計した1LDKの空間に住んでみることになったが、商品性を特化した賃貸住宅は予測通り、住み心地はよかった。 
 その後、妻が実家の医院を手伝うことになり実家と私の事務所にも近い東京都新宿区下落合駅徒歩2分の利便性のよいところに物件を見つけた。SRC造10階建9階にある中古マンションの2DKを広いワンルームにリノベーションした。ワンルームを移動家具で領域性を組み立てる方式でその後の賃貸住宅ユニットの原形ともなった36歳から40歳まで使ったが、現在も賃貸物件として稼働している。
 そのあとは、妻の実家の建て替えで東京都西東京市保谷町に医院併用住宅をつくることとなった。ヤチダヨリ 1.くるまの話Ⅰで書いたように「機能的に配列した設備や収納空間をつなぐのが、大きなリビングルームで天井高5メートルあり、体育館のような空間です。大は小を兼ねるつもりでつくりました。パーティをするとかなりの人数を許容し、とても楽しかった。しかし、年代を重ねてきた現在、気がつけば寝る以外はお茶の間のダイニングにいるだけで、リビングルームは単なる通路としてしか使わない」家である。妻の希望で木造でつくったが、外観は木造には見えない不思議な建物である。現在まで25年間近く住んだことになるのだが、一番の長居である。いつまで続くのか続かないのか、9歳年下の妻はその後のことの構想を練っているらしい。
 こうやって見ると木造、ブロック造、RC壁式、SRC造、1戸建、長屋、共同住宅、医院併用住宅、新築・中古リノベーション持家・社宅・賃貸住宅とありとあらゆるジャンルの家に住んでいたことになる。夢は立体最小限別荘(ヤチダヨリ24.立体最小限別荘の夢)である。
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2016.11.30

59.体育会系??

コラムcolumn
写真:集合写真&試合風景
 11月19日、26日の土曜日にFC東京主催の一般向けのフットサル大会「サラリーマンミニサッカー大会」に参加した。26日は会場がFC東京の本拠地、味の素スタジアム(天然芝フィールドのまわりのサブコート8面)であった。大観衆を許容できるような大きなスタジアムで体を動かすのはとても気持ちいい。2005年からほぼ毎年参加している。88チームが集まり4チームによるフレンドリーマッチのリーグ戦を行うものである。フットサルは5人制のミニサッカーであるが、ここでは女性が1名以上参加しなくてはならない。もともとは、将来地域のシニアリーグでも参加できるように同年代が集まったのだが、集まりがいまいちで、試合にも負けるので若い助っ人を徐々に入れていった。当初はFC東京主催のシニアフットサル大会があり、参加していたが、リーマンショックの後にそのシニア大会は何故か消滅してしまった。その後、建築関係の人を中心とした老若男女のチームに徐々になっていった。事務所のスタッフもサッカー好きが多く、女子も含めてみんな協力してもらっていた。若い人同士の交流もあり、楽しいコミュニティになってきた。チーム名は「多摩球倶楽部」という。この大会はほとんど20代と30代の人達ばかりだ。「俺たちはどう見ても最高齢者だったな。」と更衣室でチーム創始者(大学の同級生でもある)で我がチームのキャプテンと話していたら、隣で着替えていた30代前半ぐらいの人が「失礼ですが、おいくつなんですか?」と聞いてきた。正直に年齢を告げると「へえ、びっくり!そんなに見えない。」煽てられたのかも知れないが、ちょっと嬉しかった。
 2012年から内装会社、スーパーゼネコン、名門アトリエ事務所、超大手設計事務所、大学研究所などと我々の寄せ集め群団を加えてフットサルの大会を連続して行っている。私の事務所のスタッフが中心となって、企画したものだが、私が最長老のためこれも毎年顔を出している。「ええ(関西弁の)カップ」と名付けられた。(A-cupという建築界の大きなサッカー大会に対抗?して)2012年から6月頃5回連続して開催している。これは、6チームぐらいのリーグ戦で順位を競い合う形式だ。大江戸温泉物語の隣にあるフットサルコートに集合。午前中から昼過ぎにかけて、試合をやり、順位決定、表彰式を行う。その後、大江戸温泉物語で入浴し、一息ついてから、中にある宴会場で大宴会を行うという楽しい会である。来年は6回目となる。2015年は、わがチームが優勝した。女子の点は2点にカウントされる。今年から、シニアも2点という提案をし、認められたが、残念ながらこの大会で得点できていない。しかし、フットサルを通じて、年中行事となる交流ができている。大会がいつまで続き、こちらがいつまで付き合えることやら?
 その他、練習会やゼネコンと親睦試合などの年5,6回は試合をしている。走る持久力はそこそこあり、皆が疲れ始める後半に少しづつだが、ボールに絡む機会が増える。しかし、瞬発力が情けないほどに落ち込んでいる。歳を考えれば仕方のないことだが、それでも気合を入れて精一杯体を動かすようにしている。足腰のトレーニングは、常日頃行っているランニングで十分だと思っている。この十数年でやっているスポーツの運動量並びに時間はランニング>サッカー・フットサル>水泳>ゴルフ>テニス>スキーの順である。ランニング・フットサルなどをやり体力を維持しながら、苦手のゴルフ、テニスが少しでも上達するようにとこの歳になっても愚かにも願っている。3,40代からもっと鍛えておけばよかったとつくづく思う。
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2016.10.31

58.アオコウ卒業の頃

コラムcolumn
写真:同期会が行われたスパイラル(槇文彦設計)
 渋谷区千駄ヶ谷に集合住宅を計画し、現在工事中である。新国立競技場の敷地のすぐそばである。コンパクトな住まいが68戸あり、コモン・ライブラリーを付設した13階建の集合住宅である。この付近は、母校である都立青山高校の近くで、明治公園、神宮外苑、新宿御苑など私にとってなじみ深い場所である。当時、畑も残り田舎の風情が残っていた世田谷から神宮外苑に通学するようになって、毎日が驚きと楽しさに満ちていたのをよく記憶している。そんなこともあり、仕事の話を聞いたときもクライアントのディベロッパーの方にも是非仕事をしたいと申し出た。
 高校入試の時、いままでの入試制度が変わり、学校群制度が導入された。行き過ぎた受験競争を是正、緩和するためであった。学校群の中で成績差を生じないように均等に割り振られる仕組みであった。青山高校は当時都立高校でもトップクラスの進学校である都立戸山高校とカップリングされた。しかし、私は幸運なことに青山高校に入学することになった。入学した当初は、伝統的な進学校ではなく、少し残念というような気持でいたが、すぐに変わった。場所がいい。何より校内が自由な気風に満ちていた。型にはまらない青春を謳歌する先輩たちを見て憧れと尊敬の念を抱いた。そしてすぐにみんな校風に染まっていった。
 2年生になるとまわりに政治活動する人が増えてきた。70年安保(1970年に日米安保条約の自動延長を阻止し、条約破棄しようとする運動)の影響であった。また、東大では学内問題がこじれ、ストライキまで進展していった。同様の問題が全国の大学に広がっていった頃である。政治活動に目覚めた同級生は中庭で立看板やプラカードを放課後、一生懸命に用意していた。政治集会のメッカ明治公園がすぐそばにあったのも影響の一つだったかもしれない。その頃、私はサッカー部一途の生活であった。当時、秋の新人戦で地区優勝し、東京都でベスト8になった。東京は関東大会やインターハイでは2校出場できるため、その調子で春の大会で勝ち抜いてあと2つ勝てば東京代表になれるという夢を見つつ、ひたすら練習していた。クラスの友人の活動を横目で眺めながら、サッカーのことばかり考えていた。そして、安田講堂がバリケード封鎖され、東京大学の入試が中止になった。
 高校3年になり、サッカーの夢は虚しくも破れた。3年の同じクラスに生徒会長である活動家がいた。彼はある会派の高校生組織の幹部であった。彼の行動力、指導性は群を抜いていた。私もある大学のバリケードの中にある、高校生による政治集会に行ってみたこともあったぐらいである。単なる見学でしかなかったが。9月になり、彼が中心になって、高校生の活動について校長に質問を迫ったところ、校長は、警察の力を借りて、生徒である数人を排除してしまった。そして、秋の文化祭は中止された。また、文化祭当日に集まってきた多くの生徒たちをまたもや警察の力を使って排除してしまった。問題はこじれにこじれた。授業は当然中止で、毎日、生徒の話し合い、生徒と先生の話し合いが行われた。話し合いは決着せず、ストライキ決議を行ったところ3年生だけが、ストライキが成立した。そのうち、強い意志のメンバーが集まり、全共闘が結成された。そのうちにバリケード封鎖された。10月21日国際反戦デーの日、全国で機動隊によってバリケード封鎖が一斉に解除された。青山高校も同様であった。バリケードに残った多くは警察にパクられ、黙秘した連中は少年鑑別所に送られた。学校はロックアウトした。中にはその間受験勉強に勤しむ奴等もいたが、私達は、日本近代史を勉強しようとクラスの仲間達と勉強会をしていた。また気晴らしにサッカーを校外でやっていた記憶がある。ほとんど授業もなく、卒業式などもなく、証書を渡され、3年生は追い出された。
 その後、それぞれの生き方は分かれた。大学に行く人、行かない人、大学を出て、銀行員や商社マンなどサラリーマンなる人、そうではない道を目指す人、ほんとうに様々だ。先日、青山の「スパイラル」で高校の同期会が5年ぶりにおこなわれ、50人ほど集まった。前回同じ会場で8階のアンクルハットというラウンジであった。前回は約80人集まった。ドロップアウト組はほとんど顔を出さない。
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2016.09.30

57.マラソン準備開始

コラムcolumn
写真:完走記念メダル
 それほど得意ではなかった長距離走ではあったが、有酸素運動は体に良いと聞き、健康増進のために20年ほど前からランニングをやり始めた。10kmぐらい走ることができるようになったため、13年前、試しに青梅マラソン(30kmの部がメイン)の10kmの部に出場した。思いのほか爽快で、記録は大したことはなかったが、老若男女集まる競技会の雰囲気を楽しめた。それから、10km走は、10数回いろいろな大会に出場した。ハーフマラソンにも挑戦した。それも何とか完走することができた。2007年に東京マラソンが始まった。1度はフルマラソンを走ってみたいと思い、毎回申し込んだ。しかし高倍率でなかなか当選せず、出場できなかった。五回目の開催の東京マラソン2011にも申し込んでいたが、あるスポンサー企業の取り計らいがあり幸運にも出場できることになった。気持ちよく完走できた。2回目は、1回目の出場を横から眺めていた妻のリクエストでチャリティ枠での妻との同時出場ということになった。10万円の寄付をして、得られた出場であった。それらの達成感に味をしめて、それ以降は、他の都市のマラソンを体験したいと思った。どの大会も3~6倍程度倍率なので、毎年いくつもの大会を申し込み、当選したものに出場することになった。そして奈良、京都、大阪、横浜を走った。しばらく東京はお休みしていたのだが、今回再度申し込み、12倍の難関の中、東京マラソン2017の抽選に当選した。これから準備をしなくてはならない。
 平均的なランナーの中では、体重の多い私は、上り坂は苦手である。コースは平坦なほうがいい。負荷により、きつい上り坂は体力を消耗する。京都や奈良では、きつい上り坂で往生した。京都マラソンでは狐坂というとんでもなく急な坂を登りきったあと折り返した。そのあと坂を下っていたら、一人倒れており、心臓マッサージを受けていた。走っている間ずっと心配であった。翌日京都新聞にその記事が載ってあった。AEDで蘇生し、助かったと報じられていた。ひと安心。すると、そのあとの東京マラソンでは、取引先の知り合いの人が、やはり倒れてAEDで一命を取り留めたという。3万人の参加では、そういったアクシデントは、つきものなのかも知れないが、身近な人に生じるとさすがに怖く感じる。救護体制がしっかりした大会でなくてはと思った。
 東京や大阪は京都や奈良から比べると走りやすい。今回のコースは、今までと変わり、ゴールを台場地区ではなく、東京駅になった。都庁からスタートで浅草を中心とした下町を前半ぐるぐる回り、後半に品川まで行き、折り返し、東京駅が最終ゴールとなるようだ。それにより。上りのきつい、佃大橋や有明中央橋を渡らなくてすむ。これだったら、比較的楽で自己ベストを出した大阪マラソン2013(注1)よりも楽かもしれない。
 5か月前になってしまった。毎回、体重を数キロ減らし、半年前から、少しづつ準備をしている。しかし今年は、横浜マラソン2016(注2)後怠けてあまり走っていない。体重がオーバー気味である。まず1ヶ月100kmぐらいのトレーニングから始め、最終的には1ヶ月200kmぐらいは走るようにしなければならない。平日あまり走ることができないので、10km、15km、20kmと休日に集中して走るようにする、1か月前ぐらいには1日で42kmを走るようにして体で憶えるようにする。
 海外のレースにも観光がてらに出場したい。暑さ、高低差が厳しく、近い割合には費用のかかるホノルルマラソンには出たくないが、パリマラソン(以前ツアーを申し込んだが他スポーツでの怪我のためキャンセルした)やニューヨークシティマラソン(注3)などに参加したい。最近テロなど物騒なことが多い欧米だが、ふたつとも1度は参加し、マラソン・トレーニングをあと5年ぐらいは楽しみたいと思っている。

(注1)ヤチダヨリ#23参照  (注2)ヤチダヨリ#51参照  (注3)ヤチダヨリ#34参照
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2016.08.31

56.マイナスの遺産をプラスにする

コラムcolumn
写真:NSセンターミュンヘン
   ネオナチが嫌うようなシンプルであっさりとしたデザインである。
 あるクライアントの企画のツアーで8/15~8/22にミュンヘンとザルツブルグを訪れた。今回は楽しい観光と音楽の旅であった。
 ミュンヘンは、いままで2回訪れた。一度目は1981年で旧市街の歴史的建築物とオリンピック関連施設を見た。構造家フライ・オットーによる巨大なマストでテントを吊り下げたようなデザインのスタジアムや体育館は、柔らかな曲線が起伏のある地形に見事に調和していた。このオリンピックの丘は第2次世界大戦時に爆撃を受けたミュンヘンの建物のがれきでつくられたという。オリンピック終了後は市民の健康づくり、スポーツ活動、憩いの場として機能しており、オリンピック施設の恒久的利用として、高く評価されている。選手村は1972年に悲劇も起ったが、選手村の小さな集合住宅群もとてもヒューマンスケールで、一般に賃貸住宅として活用され、若者たちが楽しそうに暮らしていた。2度目は1997年にヘルツォークde ムーロンのゲーツ・ギャラリーにオランダからスイスに渡る途中に訪れた。今回の3回目はツアーだったが、合間を縫って、オリンピック公園の近くにあるBMWヴァルト(ショールーム)を見学した。設計はコープヒンメルブラウ。いわゆる脱構築的建築で私は距離を置いていたが、外観はともあれ、内部空間はすっかり一般客に馴染まれており、近未来的光景をつくっていた。
 ツアー中盤は、ミュンヘンから少し足を延ばして、ノイシュヴァンシュタイン城やヘレンキムゼー城といった観光名所を訪れた。共に「狂王」の異名で知られるバイエルン王ルードヴィッヒ2世がつくったものである。彼は神話に心酔し、建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した。当時の為政者はそれを危惧する中で、謎の死を遂げた。それらは未完成部分を多く残したまま中止された。「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と遺言していたが、直後から城と内部は市民に一般公開された。この城は、ウォルトディズニー眠れる森の美女のモデルとなった城である。文化的、歴史的にも文脈の切れたスタイルは私には違和感があったが、当時最先端の蒸気クレーンで山上に幻想的に構築された姿は、いまやドイツで一番の観光客数を誇る観光スポットとなり、観光のバイエルン州を潤わせている。同じくバイロイト祝祭劇場も残し、世界中から音楽愛好家を集めている。
 後半はオーストリアのザルツブルグである。市街の歴史地区はユネスコの世界遺産になっている。モーツァルトとカラヤンが生まれた地でもあり、ヨーロッパ最大の音楽祭「ザルツブルグ音楽祭」が開催されていた。猫に小判かもしれないが、当日「ドンジョバンニ」のチケットを調達し、その優美な雰囲気を楽しむことができた。
 しかし、今回の旅で印象深かったのは、2日目の最後に訪れたナチス・ミュージアム(NAZI MUSEUM)であった。ミュンヘンはナチス発祥の地である。去年(2015年5月)オープンし、ナチス党本部の跡地に建てられた。正式の名前は「NSセンターミュンヘン 国家社会主義の歴史に関して教育記憶の場所として」である。連邦政府、バイエルン州、ミュンヘン市が共同出資で建設した。何故ミュンヘンでナチス党が広まったのかから始まり、現在まで記録されている。ユダヤ人の強い働きかけがあったにせよ、長い年月をかけて行政が、二度とこのような過ちに陥らないような訓戒として記録を残すことは幾多の困難が待ち構えていたに違いない。第一次大戦後の情勢とナチスが生まれるまでの過程、差別と独裁の恐怖時代、第二次大戦後から現在までの記録を上階から淡々と降りながら次から次に情報を受け取ることができる。ミュンヘン市民の多くはバカンス中で入館者は閑散としていたが、このように過去の負の遺産を行政が自ら隠さず残すことはすばらしいことだ。それを未来に生かすことができれば立派な資産となりえると思う。
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2016.07.31

55.多目的ホール

コラムcolumn
写真:オマール・ソーサ、熊谷和徳、当日の出演者と共にアンコール
   観客全員スタンディング  ”プランクトンのホームページより”
 先日、友人に誘われて、ピアノとタップダンスというジャンルを超えた珍しい組み合わせのコンサートに行ってきた。ピアノはオマール・ソーサという1965年キューバ生まれ、バルセロナ在住の「鍵盤の魔術師」の異名を誇るピアニスト。様々な国籍のミュージシャンと組んでライフワークであるアフリカ音楽を追求する一方、アラブやインド音楽など、ジャズの枠を超えて多岐に渡る活動を続けているそうだ。タップダンスは熊谷和徳という1977年生まれの超絶の足技のタップダンサー。15歳からタップダンスを始め、19歳でニューヨークへ単身渡米。NYで認められ、ストリートからJAZZ CLUBまで独自の活動を広げ、ジャズからクラッシックまでいろいろなジャンルのミュージシャンと競演している。NYと日本を二大拠点とし、活動の場を世界中に広げている。
 一日の小さな音楽フェスティバルの「トリ」となる二人の共演であった。オマールの意外とメロディアスな(かといってスタイルが定まっていない抽象的な表現)演奏に合わせたタップである。音楽とダンスの組み合わせというより、最初の紹介でオマールがいったようにタップという打楽器による掛け合いのようなデュオである。鍵盤がつくりだす立体的な空間にタップのモノトーンの音が見事に埋まって行く。二人が出す別の音が共時的にシンフォニーになるという感じであった。インドネシアのガムランはより組織的で複雑な音だが、同じようなアンサンブルである。とても心地よく感じた。打楽器は大好きだ。しかし、これと正反対の同じ音を同時に鳴らす、和太鼓は苦手な音楽である。同じように同じ音で歌うユニゾンで同時に同じ踊りをするアイドル・グループの形式もそのような観点でみると冷めてしまう。立体的な展開があるものが好きだ。
 会場はめぐろパーシモンホール。都立大学移転の跡地にできた「めぐろ区民キャンパス」という地域に開かれた複合施設のなかにある多目的ホールである。東横線の都立大学駅より徒歩7分の住宅地の中にある。大きなガラス張りのホワイエからは「めぐろ区民キャンパス」全体が見渡せる。大手設計事務所設計の定員1200名で音響設備もゆきとどいたモダンで立派なホールである。いろいろなイヴェントが主として地域のために行われるが、設備が立派な割合に割安の料金?のためか、ユニークで文化的なイヴェントにも活用されている。
 今年の3月に行ったブエナヴィスタソシアルクラブのコンサートで行った武蔵野市民文化会館も同じような建ち位置のホールである。1984年に武蔵野市役所旧庁舎跡地につくられた1,354席の多目的ホールである。吉祥寺駅や三鷹駅からは遠いが、周辺は緑豊かで公共施設がちりばめられ、好環境である。西東京市の自宅から井の頭公園に行って戻ってくる私のジョギングコースの通過点にある馴染みの場所だ。以前、公共施設が競い合うように建てられ、いわゆる「箱物」と批判された施設であるが、このように高い文化性が保たれることに寄与でき、有用に活用されていればよいことかもしれない。しかし、改修工事のため、4月1日より全面休館となった。2017年4月20日リニューアルオープン予定だそうだ。しかしその費用は相当にかかり、一つの市役所が建てられるくらいの予算らしい。財政がひっ迫している自治体であれば、このような改修はやれないと思う。隣接する西東京市に居を構える身としては羨ましい限りである。武蔵野市など家賃や地価が高いところは財政が豊かで環境も整備されている。先立つものがあれば、暮らすにはこのあたりがいいのかな?
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2016.06.30

54.ゲストハウス

コラムcolumn
写真:ゲストハウスMADO
 6月5日名古屋市緑区有松で開催された「有松絞祭り2016」に行ってきた。そちらに建築の計画があり、そのリサーチを兼ねていた。6月の第一土曜日、日曜日に毎年開催されるそうである。有松は「有松絞り」で有名な東海道の宿場町であった。尾張藩が奨励した有松絞りと共に発展した街で、名古屋市の「有松町並み保存地区」に指定され、ここ数年で街並み整備が本格化している。その祭りの様子を見ようと思ったが、土曜日は午後打ち合わせがあり、出発は夕方である。翌日内覧会もあり、少なくとも15時までには戻ってきたい。日曜日の11時ぐらいまでしか居られない。日帰りは不可能である。早く着くためには有松に泊まるしかないが、名古屋駅まで電車で30分の有松駅にはホテルはない。探してみると「ゲストハウスMADO」という民宿?があった。1泊3000円?何?それ。本当かな?電話で予約してみる。相部屋だが、たまたま1名空いているという。丁寧な対応であった。単に泊まるだけでいいのでお願いする。こういう体験もあっていいと思った。今年のゴールデンウィークに行った修善寺の名門旅館とは対極的な泊まり方である。
 夕方に名鉄本線に乗り、有松駅から街道沿いのゲストハウスに行く。早速オーナーに話を聞いてみると、彼は、以前上海でアパレル関係の事業をやっていたそうだ。異国の地にいながら、郷里の伝統的文化のある有松でこのようなビジネスをやってみたいと想い描き、感奮興起し、有松の町屋の物件を探し、1棟借りし、1年ちょっと前に開業したそうだ。当初、ゲストの7~8割が外国人であったが、最近は日本人も増え、外国人は5~6割だそうだ。ゲストブックにいろいろな人の写真が載っている。1泊3000円(食事別)。伝統的な街並みの中の民家に泊まり、料金はリーズナブルを飛び越えて格安。人気が出ないわけがない。トイレ洗面はもちろん共同、外に男女別にシャワーブースがあるだけである。つい、月の売り上げはなんて計算してしまうが、3部屋で相部屋も含め定員は10名である。こじんまりとしたカフェも併設してあった。当日は「有松絞祭り2016」であったため、満室であったが、タイミング良く申し込んで滑り込むことができた。グループ旅行の女性達と都立高校同期の旅行会の男女のグループで私だけが単独の宿泊者であった。夕食後、寄り道したワインバーのワインの酔いもまわり、相部屋の人達との会話もそこそこにして、一番で床に就いた。早朝、一番で起き散歩する。昨晩のお祭りの宴の余韻が残る中、神社や旧跡、敷地周辺を足早に回る。9時から有松絞祭りを見学した。
 30数年前、4か月ヨーロッパ建築一人旅をした時にはヨーロッパではこのようなゲストハウスに泊まっていた。大部屋でベッドが並んでいて、ときには男女同室であったりして、着替えの際には目のやり場に困ったこともあった。知り合いの家、夜行列車以外に貧乏旅行を支えるものはこのようなスタイルの宿泊所である。1985年の中国旅行の時にも大きなホテルにはバックパッカー用のドミトリーが用意されていて、情報交換をしたものである。私にとって馴染みがよい。2年前に金沢に行った時もあらかじめ調べ、東茶屋街で町屋宿した。これは単なる民泊であったが、環境を考えるとリーズナブルな料金であった。
 都心部のホテルでは需要が供給を大きく上回り、底なしに宿泊代が高くなっている状況に対して、逆にこのような宿泊も増えてきているという。これから円高ともなればさらに増えるかもしれない。そして、クライアントとも会い、お昼前に名古屋を発ち、新幹線で東京に戻った。前夜のワインバー、普段はワインショップで金曜土曜日だけの営業だそうだが、客同士の会話も自然とつながり、スマートでゆったりとした時間が流れている。スローな旅、スローな飲みはいいなと思った。ただ、今回の私の旅はスローとはほど遠い弾丸旅行であったが、でもとても楽しかった。
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2016.05.31

53.木造建築

コラムcolumn
写真:5月末に完成した大宮八幡の住宅(設計:谷内田章夫/ワークショップ) 
特別緑地保全指定地区にあるため厳しい形態制限がある代わりに防火制限は受けなくて済んだ。  
撮影:齋部 功
 ゴールデンウィークに伊豆・修善寺の名旅館に1泊ずつ泊まった。一つは「柳生の庄」。大学の京都研修旅行の折、レクチュアをしていただいた左官職人・久住章さんに関東地方で彼の仕事を見ることができるものはないかと聞いたら、その旅館の名前が出てきた。大がかりな改装の仕事だったが、大勢の職人さんを引き連れて、存分の仕事ができたそうだ。建築の設計の仕事をやっていながら、実は、私は左官の仕事はほとんど知らなかった。大学院の研究室が、建築の工業化とデザインというテーマとしていたため、この手のものには触れる機会がなかった。また、仕事をし始めてからも主体は鉄筋コンクリート造であり、専らコンクリートの打放し仕上げであることが多かった。おかみに久住さんの話をしたら、お客さんが出たあとの他の部屋を案内できるので是非どうぞといわれた。すべてを左官仕上げでできた硯のような風呂があった。その不合理なつくりから価値が生まれる。気分が相当に乗ってつくられた名作だそうだ。百聞は一見に如かずというところである。
 その「柳生の庄」をチェックアウトしようとしたところ、サイレンが遠くからなり始めた。何やら、スピーカーでも、街中に情報を伝え始めていた。「津波?」地震はなかったし、ここは多少山の中に入ったところ、鳴りやまないが、音声は聞き取れない。急に停電になった。旅館から、街で火事が起こり、停電になったと聞く。次の旅館に行くまで少し間があるので、街を離れた。海越えの富士山が絶景の達磨山や季節の花々が楽しめる「虹の郷」に行った。街に帰ってみると未だ煙が街に立ち込めている。急速に発達した低気圧による暴風のため、火はだいぶおさまったが、半日にわたって延焼し続けているのだという。(後で聞くと8軒が全燃他5軒にも燃え移ったそうだ)街の中心部は通行止めで、脇道からかろうじて二泊目の「あさば」に入る。しかし、停電の影響で供給先の温泉のポンプが動かず。夜は、温泉に入れないかもしれないといわれた。子供の頃はよく体験した火事の怖さを思い出した。外壁が防火構造になり、耐火建築が増えた現在では、見かけられない光景であった。
 最近、木造を設計することが多くなった。この2,3年で集合住宅2件、個人住宅4件手がけている。型枠や鉄筋の職人が徐々に少なくなり、コンクリートの工事費が上昇したのもその要因の一つでもある。一般的な木造の住宅の需要と供給はそれほど変わらないため、木造に着目した。現在では、木造でも防火や遮音に対応した、作り方も開発されてきている。考えてみれば、全国各地に行って素晴らしいと思った宿泊施設は全て木造の旅館であった。従来の木造の欠点である気密性や断熱の多少の悪さがあっても、空調や床暖房が目に見えないところにほどよく上手く施され、非常に居心地がよかった。木造のよさを再認識した。
 修善寺は外国人客(ここでは欧米系が多いそうだ)がこのところ増えて、日本の温泉文化に関心のある人たちが集まってくるようだ。「柳生の庄」の露天風呂で一緒になったドイツ人も旅行者だったが、温泉旅館をいろいろ体験したいという。温泉旅館や温泉街の風情は日本固有のものだが、それを形づくるのは2階建て以下の木造建築である。また、よく訪れる京都や金沢(条例により景観政策がゆきわたり、年ごとに改善されていると感じる)などの街並みも同様である。しかし、その保存継承には、建築法規が立ちはだかる。防火地域指定(都市部で建蔽率50%を超えるところはほとんど制限を受ける)があるところではで外壁や建具に木製のものが使えない。新しい建築は全て従わなくてはならない。古い建物は既存不適格建築物となる。全国的に均一に法の網の目をかけるのではなく、消火体制や性能基準の見直しやその運用方法などにおいて、その地域に見合った柔軟な対応をしてほしいと思う。また、工業化も利用した設計の技を磨かなければならないと思った。
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2016.04.30

52.アレルギー反応

コラムcolumn
写真:吉祥寺ハモニカ横町 清水屋の漬物
 この近年マスクを着けている人が増えた。SAASなどの感染症対策以来目立つが、年末から厳冬期の多くは風邪やインフルエンザのためで、春先にかけてはほとんどがアレルギー性鼻炎(花粉症)ではないかと思う。40年以上前にそのアレルギー性鼻炎(花粉症)になった。当時自宅(実家)に近くの団地の中学生を呼んで家庭教師をしていた。春先の土曜日の朝、寝起きのままでの状態で教え始める。鼻がむずむずする。大きなくしゃみが出る。立て続けに何回もでる。「ごめん。なんか変だね。」あっという間に屑かごの中がティッシュでいっぱいになる。その時は、何か変だなと思っただけである。しばらくすると多少おさまってくる。最初はその程度であったが、そのうちにだんだん症状がひどくなる。数年して隣家が耳鼻咽喉科の医院であったため、見てもらう。そしてそれがアレルギー性鼻炎(花粉症)であることがわかった。
 20代後半仕事をし始めたころ、春先になるとさらに症状がひどくなる。マスクをして鼻や口の近辺を覆い、湿った暖かさになると多少和らぐ、ハッカやミントなどの刺激を与えると鼻の毛細血管が広がり鼻の通りが良くなる。しかし激しくなると頭がぼぅーっとしてくる。鼻が詰まり、鼻水が止まらず、目や喉がはれてくる。そうなってくると仕事にならない。珍しく早退し、隣家の先生に抗アレルギーの強い薬で抑えてもらうことになる。鎮まるが、翌日極度の眠気に襲われる。これも仕事にならなくなる。こんな強い薬を飲んで大丈夫かと心配になる。そんな春先は憂鬱であった。
 なぜ急にそうなったかを後で自分なりに分析してみた。
① その頃突発性難聴になったため運動を控えた。そのため代謝機能が衰え、肌身をさらす機会が急激に少なくなり、粘膜の機能が衰え、温度変化に過敏になった。
② また以前住んでいた世田谷から保谷市(現西東京市)に移ったあとであり、戦後植えられた杉の大軍が控える、奥多摩、奥秩父に近くなったこと。2月、3月は北西の風に乗って花粉が運ばれるらしい。
③ モータリゼーションが右肩上がりで隆盛の頃、大気汚染が問題になったころでもある、アレルギー問題とは別だが、光化学スモッグが生じ、健康被害が報じられ始めたころと同期する。
 それが、20年ほど前に「いい薬が出たらしい。」内科医である妻から話があった。「アレジオン」という薬であった。現在では市販もされているらしい。飲んでみると今まで苦しかったのが嘘のように感じられるほど症状が出ない。薬はその人により合う合わないがあるから一概には言えないが、私の場合、完璧に効いたのである。以降20年ほど使い続けているが、さしたる副作用のようなものはない。花粉症の人たちを見ても「大変そうだなあ。」と他人事のように思えるようになった。花粉症に対して無意識になったためか、時折症状が現れると「風邪をひいてしまったかな?」と思ってしまう。妻に症状を話すと「それは花粉症ではないか?」といわれる。「そういえばそうだ。」と思い、点鼻薬、点眼薬をさす。たちまち症状が消える。しばらくは全く症状が出ない。私としては、非常にありがたい薬の効用である。最近かかり、苦しんでいる人達を横目に見ながら、助かったなとつくづく思うのである。
 ところで、食べる物の中で、私はキューリと漬物が大の苦手だ。小さい頃から今まで何回か試みているが、駄目である。会食の際「食べられないものはありますか?」聞かれるといつも2,30分ぐらいは会話がつづく。「何故?」まことしやかな理屈をつける。好き嫌いに理由はない。くだらない話で盛り上がる。多分精神的なものの蓄積で、一種のアレルギーみたいなものかもしれない。野菜は大好きで毎日の主食のように食べるが、漬物は新鮮な野菜を腐らせたようなにおいが気になって食べられない。子供の頃から染みついた観念である。家族はみんな大好きであったが・・・。こいつに効く薬はないものだろう。
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2016.03.31

51.横浜マラソン2016

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写真:横浜マラソン2016スタート前
 3月13日横浜マラソン2016に参加した。大阪マラソン2013以来でフルマラソンは2年半ぶりの出場であった。5年前にフルマラソン初チャレンジ以来6回目となる。自己ベスト更新と行きたいところだが、年末年始の様々なイベントのおかげで減量の予定が上手くはかどらず、今回は、5時間以内完走を目標とした。今まではこれをなんとか満たしている。
 ゴール地点のパシフィコ横浜に荷物(着たものなど)を置く。そこからスタート地点まで1km近く歩いてゆく。みなとみらいの広大な空地に仮設トイレが建ち並ぶ。他の大会から比べて、充分な規模であったように思う。1時間前の集合時間に遅れるとスタートは最後尾にまわされる。トイレの混雑は、パニックになりかねない。
 スタート時の気温は9℃であった。長時間走るランナーとしては15度ぐらいがよく、その後の温度上昇を考えるとちょうどいい温度かもしれない。私は、マラソンの時だけであるが、指先などの体の端部が冷えやすいので15度~20度ぐらいがよいと感じている。スタートまで1時間以上待たされる。かけるためのウエアだから、止まっていると当然寒い。今までの経験で透明ビニール製の使い捨てのコートを身に付けざるを得ない。スタート後、しばらくして、係りの人に捨ててもらう。ただ、相当に密集しているので、猿団子ではないけれど、人が寄り集まり、体温を放出するので意外と温かい。人は炭団(タドン)1つ分のエネルギーといわれ、そう思っていた。調べてみると6000キロカロリーを5時間で放出するらしい。24時間換算で言えば30000キロカロリーなので人の十倍にはなる計算である。それでも25000人ということは、炭団(タドン)2500個分ということにもなる。というわけで、意外と人の代謝エネルギーや幅射熱の影響もあって、それほど寒くはないというのが、実際の感覚である。
 スタートの号砲から我々がスタート地点まで行くのに18分を要した。進行役の人がゲストの「ゴウリキアヤメ」さんがいるところがスタートの場所だとしつこくがなりたてる。しかし、一番目立つ所に、目立つピンク色のスーツを着たおばさんが立っていた。残念ながら、横浜市長であった。タレントは「おとり」のようなもので、グレーの服装で目立たなかった。市長だけが何故か目立とうとしていたような気がした。
 赤レンガ倉庫、県庁、横浜スタジアム、山下公園と横浜らしい景色が続く。42.195kmの旅は、長丁場で飽きが来る。i phoneのナイキのランニングのアプリを使って、ラップ時間を確かめる。同時に音楽も聞くのだが、前日、景気のいい音楽を入れようとビートルズの初期のロックンロールナンバーを用意する。結構乗れた。比較的最近の曲では、ミヒマルGTあたりも入れておいた。これもよかった。
 が、体は重い。前半戦は後ろから結構抜かれた。気にせず、マイペースを保つ。新杉田を過ぎた南部市場で折り返し、後半戦は高速道路を登る。500mぐらいのきつい斜路が続く、防音壁があるから、景色はあまり見えない。曇り空の下応援の人も途絶える。代わりにサンバダンサーやフラダンサーが登場する。妙齢(失礼!)のオバサン達とハイタッチを交わす。さらに進むと本牧埠頭では距離稼ぎのような単調なコースとなり疲れがたまってきた。そこで以前、数回ほど指導してもらった宇佐美彰朗さんの教え「一直線上を進み、腕をしっかり振り、前傾して、足全面でつかむように着地する」を思い返す。基本に忠実にマイペースを続ける。すると今度はまわりに足を痛めたり、へばって、歩いたり、ストレッチなどする人が出てきた。20、30、40歳以上も若い人たちを追い越し始めた。最後はごぼう抜きでのゴールは快感であった。ウサギとカメのイソップ寓話のようだが、何事もこれでいいのだと改めて思った。
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